Turiyatita

トゥリーヤーティータ:第4の彼方から、伝統的ヨーガをベースに近隣ジャンルにも出没。 あるヨギーニ/瞑想者のブログです。 新月の日に更新します💻。 内発的動機付けという幸運があなたの前進を支えますように✨

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)― ラマナ・マハルシの講話から

 

Samadhi, turiya and nirvikalpa all have the same implication,
that is, awareness of the Self.

サマーディ、トゥリーヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している。
それは真我の自覚である。

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)

 

トゥリーヤとは?
ラマナ・マハルシについて

 

ヨガの知識面や哲学面を学んでいくと、
いつかどこかでみな遭遇するであろうこの意識の4つの状態の説明。

  • ジャーグラト(jagurat, jagrata)… 起きている状態
  • スワプナ(swapna, svapna)… 夢を見ながら眠っている状態
  • スシュプティ(susupti, sushupti)… 夢を見ずに熟睡している状態
  • トゥリーヤ(turiya)…第4の状態

 

最初の3つは、サンスクリット語の発音と筆記はともかく(無理)、
内容は「あーはいはい」と理解可能なものです。

ジャーグラトはこのブログ読んでるその今の状態ですし、
スワプナ、スシュプティっていうのは、現代でいう、レム睡眠とノンレム睡眠……
あ、ノンレム睡眠でも夢見るんですね。
じゃあ違うよね。(なら書くな)

 

そんなわけで(?)、やはり、新規ポイントは4つめの「トゥリーヤ」です
(このブログのアドレスにも使用)。

 

『ヨーガ・スートラ』や『バガヴァッド・ギーター』で取り扱わないせいかどうかは
わかりませんが、@日本ではまだまだ馴染んでいない気がするこの「トゥリーヤ」。

(ちなみに英語ならWikipediaにまとめられてます 参考:Turiya - Wikipedia

 

でもこれめっちゃ大事。

アートマン」くらい、

「プルシャ」くらい、

「サット・チット・アーナンダ」くらい大事。(っていうか同じものの別名やねん)

 

 

そんなわけで、
「トゥリーヤ」についての記載がある『ウパニシャッド』や
(わたし的には)有名な(ヨガ界の)聖者さんの講話から引用させていただきながら
説明をまとめるべくブログ再開。

 (…まさかこのジャンルで再びブログ復帰するとは思ってなかったから、
昔まとめた記事、全削除したんだよ……あれもう何年前やろうか……)

(どちらにしても、また書く。)

 

 

about Ramana Maharshi
ラマナ・マハルシについて

 

 

Although tendencies towards sense-objects [vishaya vasanas],
which have been recurring down the ages,
rise in countless numbers like the waves of the ocean,
they will all perish
as meditation on one's nature becomes more and more intense.

たとえ 幾生にもわたって繰り返されてきた
対象物へと向かう感覚の 潜在的傾向(ヴィシャ・ヴァーサナ)が
大海の波のように無数に立ち現れようとも、
自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、
それらの潜在的傾向はうち破られるだろう。

 

 

最初は、シュリー・ラマナ・マハルシ(1879年12月30日-1950年4月14日)の
「トゥリーヤ」の説明をまとめていきたいと思います。

……次の記事から。(笑)

 

ラマナ・マハルシは、(わたし的には)有名な方だと思うのですが、
一応簡単にご紹介します。

 

参考:ラマナ・マハルシ - Wikipedia 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)-ラマナ・マハルシ
このあたりの生まれだそうです

 


In Hindu parlance he had "realised the Self";
that is to say, he had realised by direct experience that
nothing existed apart from an indivisible and universal consciousness
which was experienced
in its unmanifest form as beingness or awareness
and in its manifest form as the appearance of the universe.

ヒンドゥー教の宗教的用語で言えば、彼は「真我を実現した」のだ。
つまり、彼は
宇宙という現れとしての顕現形態と、
存在あるいは覚醒としての非顕現形態の中で体験される、
分割不可能な普遍の意識以外には何も存在していないことを、
直接の体験によって悟ったのである。

 

Normally this awareness is only generated
after a long and arduous period of spiritual practice
but in this case it happened spontaneously, without prior effort or desire.

普通、このような覚醒は長く困難な霊的修練を経た後にのみ起こるものだ。
だが彼の場合は、努力も願望もなしに自然に起こったのだった。

 

Venkataraman, the sixteen-year-old schoolboy, was alone in an upstairs room
of his uncle's house in Madurai (near the southern tip of India)
when he was suddenly gripped by an intense fear of death.

この十六歳の少年ヴェンカタラーマン(本名)が
突然強烈な死の恐怖にとらえられたのは、
インド最南端に近い都市マドゥライにある叔父の家の二階の部屋に
ひとりでいたときのことだった。

 

In the following few minutes he went through a simulated death experience
during which he became consciously aware for the first time
that his real nature was imperishable and
that it was unrelated to the body, the mind or the personality.

それにつづく数分の間、彼は模擬の死の体験を通り抜け、
そのとき初めて
彼の本性が、身体とも、心とも、人格とも関わらない
不死不滅のものであることに
意識的に気づいたのだ。

 

Many people have reported similar unexpected experiences
but they are almost invariably temporary.

これに似通った、予期せぬ体験をしたという報告は数多く聞かれるが、
それらはほとんど例外なく一時的なものだ。

 

In Venkataraman's case the experience was peranent and irrevesible.

ヴェンカタラーマンの場合、
体験は永久的で、二度ともとに戻ることのないものだった。

 

 

スピリチュアルプラクティスが霊的修練て…!
英語読んだら正直目が点やなコレ…

 

もとい。笑

この点については、ラマナ自身のこういう説明があります。

 

 

Is it possible for a person
who once has had the experience of sat-chit-ananda in meditation
to identify himself with the body when out of meditation?

ひとたび 瞑想のなかで
サット-チット-アーナンダ(存在-意識-至福)を
体験した人が、
瞑想が終わるとともに
再び身体と同一化することはあるのでしょうか?

 


Yes, it is possible,
but he gradually loses the identification in the course of his practice.
In the floodlight of the Self the darkness of illusion dissipates for ever.

それはありうる。
しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。
そして真我のあふれる光の中で、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

 

Experience gained without rooting out all the vasanas cannot remain steady.
すべてのヴァーサナーが根絶されないまま得られた経験は、定着することができない。

 

Efforts must be made to eradicate the vasanas;
knowledge can only remain unshaken after all the vasanas are rooted out.

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。
すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

 

We have to contend against age-long mental tendencies.
われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

 

They will all go.
Only they go comparatively soon in the case of those who have made sadhana in the past and later in the case of others.

それらはみな消えるだろう。
ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、
他の者たちの場合はより遅いだろう。

 

 


 つまり、
 彼自身は、過去生でがっつり修練を積んでいたと思われます。

 だって、
 努力も願望もなしに自然に起こって「永久化」とか、
 無 理 や て 、 普 通 。

 いいんです、結果が同じなら、努力と願望があっても。(笑)



 …で(笑)、この努力が必要なのは、瞑想での体験に限ったことではなく、

 まあたとえば突発的偶然や、先生&先輩方からの好影響なんかで
 一時的に体験できたパターンでも同じだと思います。


 「永久的で、二度ともとに戻らない」状態になりたければ、

 「真我」or「サット・チット・アーナンダ」に
  向かっていかないヴァーサナー、またはサンスカーラを、
  一度、
  完全に、
 消滅させる必要があります。



 (このあたりのスピリチュアルプラクティスで、
 必ずクリーニングがおきるので、
 まあたとえば、
 おそらく@世俗生活だと特に、

 (……座班と座班 ⓒ Master DKの違いって、なんていうか…
  …ほぼ同年代(16~17才?)ということでお名前をあげますが

  グレタさんと藤井7段の違いかと

  ・やがてたくさんの人達と大きなうねりをつくりあげる道:
  ・個人の能力を高めて(人1人としてのリミットを外して)いく道:

  別に後者も自分だけでやってるわけじゃ絶対にないんですが(真顔)
  なんていうか、ちょっと、違うんですよ、方向が…
  これは、情熱を持てば持つほど、絶対に二兎は追えないのでね
  前者は別パターンなら香港の若者たちの未来に栄光あれ、とかだよなあ…。涙

  他にもたくさんいらっしゃるけど
  できる応援とかはしてるけど、ほんと感謝と尊敬と応援しかない。涙)

 (そして、このブログは、
  いつか読むであろう、後者のタイプのあなたのためのものです)

 
 今まで自覚せずにきたものの数々を直視しろとか

 自分の感情のプロになれとか(我慢してた分は解放する羽目になるよ)
 できない言い訳は要らない、必要なのはどうすればできるかを思いつく力だとか

 すべての己のスキル(観察力読解力思考力含)は願望/目的成就の為に使えとか
 仮説行動結果検証フィードバック修正再仮説再行動サイクルが大事とか
 先生方先輩方の忠告(この段階では、むしろ忠告)の意味は、
 すべていつか必ずわかるとか

 
 ちなみに、
 「おおよくここまで頑張った、じゃあ最期に、気付いてないとはおもうけど

 まだちゃっかり同一化しちゃってるもの全部剥がすからねー(恩寵)」が
 最期に来るよとか

 ここらへん大事ですかね
。笑)



 完全に消えてしまったら、
 もうそのあとは別に、 マーヤーの海で溺れることもないです。


  

 

ラマナ・マハルシの指導方法は
「ジニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」に属するものとみなしてよいと思います。

実際、真我(the Self)をジニャーナ(jnana)と言い換えた説明もよくしてます。

 

で、実はこの「ジニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」、
(伝統的な)やり方があって、
そこはマハルシもちゃんと説明してらしたので(笑)、せっかくなのでご紹介します。

 

 

Having heard this truth, why does not one remain content?

真理を聞いたにもかかわらず、なぜ人は満足しないのでしょうか?

 

Because samskaras [innate mental tendencies] have not been destroyed.
なぜならサンスカーラ、心の潜在的傾向がいまだに破壊されていないからだ。

 

Unless the samskaras cease to exist, there will always be doubt and confusion.
All efforts are directed to destroying doubt and confusion.
To do so their roots must be cut.
Their roots are the samskaras.

サンスカーラが消え去らない限り、つねに疑いと混乱は続くだろう。
すべての努力は この疑いと混乱を破壊することに向けられている。
そうするためには、その根本を絶たねばならない。
その根本がサンスカーラである。

 

These are rendered ineffective by practice as prescribed by the Guru.
グルから指導された修練によって、サンスカーラは効力を失う。

 

The Guru leaves it to the seeker to do this much
so that he might himself find out that there is no ignorance.

探究者が自分自身の努力で無知が存在していないことを見いだせるように、
グルはそれを探究者の手にまかせる。

 

 

  1. シュラヴァナ sravana:
     真理を聞くこと Hearing the truth

  2. マナナ manana:
     熟考 practice reflection 

  3. ニディディアーサナ nididhyasana:
     絶え間ない黙想  uninterrupted contemplation

 

Hearing the truth [sravana] is the first stage.
真理を聞くこと(シュラヴァナ)が最初の段階である。

 

If understanding is not firm one has to practice reflection [manana] and
uninterrupted contemplation [nididhyasana] on it.

もし理解が確立されていないときは、それについての熟考(マナナ)と
絶え間ない黙想(ニディディアーサナ)が為されなければならない。

 

These two processes scorch the seeds of samskaras
so that they are rendered ineffective.
この二つの過程がサンスカーラの種子を焼き尽くし、効力を失わせるのである。

 

Some extraordinary people get unshakable jnana after hearing the truth only once.
These are the advanced seekers.
Beginners take longer to gain it.

幾人かの非凡な人達は 真理を一度聞いただけで、揺らぐことのない知識を得る。
彼らは熟達した探究者たちである。
初心者には長い期間が必要となるだろう。

 

 


 ・・・1回でgetできるとか、どれだけ非凡やねんその人達!(笑)



 もとい(笑)

 マスターは、
 もう一人のマスターを作りたいんですよ。

 そしてこの、山のような仕事ズを手伝ってくれる仲間がほしい(涙) 
 生徒には、自分自身で出来るように、なってほしいんです。


 この点に関しては、別の大きな意図もあって、



 最期の課題は、あなたが一人で、超えることになります


 あなたは、最期、たった独りで、あなたの最大の壁と向き合うことになります。

 だから、あなたは、自分で自分の為に自分で歩く練習を始める必要があります。


 
 なので、こちらも、
 魚を与える代わりに、釣り竿を渡して釣り方を教えます。
 授人以魚 不如授人以漁 by老子

 信者になって盲信崇拝して欲しいわけじゃないんです。(むしろ何それキモ)

 それくらいなら、
 こちらが渡し得る全部を吸収して、
 それを土台にして、
 自分達よりももっと高く飛んで欲しい。
 そして
 次世代に、更にもっと素晴らしいバトンを渡して
 このリレーを繋いで欲しい。
 フィギュアスケート界(男子)の4回転時代みたいなあの進化は、
 すべてのジャンルで起きていいはずだ(笑)。
 
 だから、自分で努力するように促すんです。
 自分で見いだせるように導くんです。
 魚をもらう代わりに、漁船と底引き網を貰え(笑)、ということです。
 そして、自分で魚を得る力をつけてほしい。
 
 個人的には子育てにも似てるんじゃないかなって思うんですが、
 まあ、なんていうか、
 子供には

 「自分が主体になって、自分の人生を、歩いていける大人になって欲しい。」
 だから、歯を一人で磨けるようになろうね、
 ボタンを一人で止められるようになろうね!って励まして、育てるわけですよ。

 そんな感じです。





 そういうわけで、

 もし
 あなたが
 探究者なら、

 真理の扉は、
 自分自身の手で、
 開いてください。

 (通行料に肉体は持っていかれないし、黒いウネウネの手も出てこないんで、笑)


 立って歩け。前へ進め。あんたには立派な足がついてるじゃないか
  ⓒエドワード・エルリック
      +
 『あきらめたら そこで試合終了だよ』
  ⓒ 安西先生


 

 


The point to be grasped is this,
that Heart means the very core of one's being, the centre,
without which there is nothing whatever.
理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、
それなしには何も存在しないということである。

Hridayam equals hrit plus ayam; it means "this is the centre".
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、
それは「これが中心だ」を意味している。

 The Heart is the centre of all.
ハートはすべての中心だ。

That from which beings come into existence
is said to be Brahman in the Upanishads.

That is the Heart.
Brahman is the Heart.
生きるものたちが、そこから存在を現す者がブラフマンであると
ウパニシャッド』は説いている。

それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。

 

The consciousness which is the real existence
and which does not go out to know those things which are other than Self,
alone is the Heart.
真我以外のものを知ろうと外へさ迷いでていくことのない、
真の存在である意識、それがハートである。

 Since the truth of Self is known only to that conscousness,
which is devoid of activity,
that consciousness which always remains attending to Self alone
is the shining of clear knowledge.
真我の真理は ただ活動のない意識によってのみ知られるため、
ただ真我にだけ注意を注ぎ続ける意識こそが 純粋な知識の輝きなのである。

 

 


 

今回の引用元の書籍はこちらです。

 

 

Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Kindle版)
英語引用元

Be As You Are:
The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Edited by David Godman

 

 

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
日本語引用元

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド・ゴッドマン
福間巌訳