Turiyatita

トゥリーヤーティータ:第4の彼方から、伝統的ヨーガをベースに近隣ジャンルにも出没。 あるヨギーニ/瞑想者のブログです。 新月の日に更新します💻。 内発的動機付けという幸運があなたの前進を支えますように✨

サマーディと『ヨーガ・スートラ』について、トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)、アートマン・ブラフマンとマーヤーについて(1)

 

Samadhi is one's natural state.
It is the undercurrent in all the three states of waking, dreaming and sleeping.

サマーディは人の自然な状態である。
それは目覚め、夢見、眠りの三つの状態すべての底辺に流れている。

The Self is not in these states, but these states are in the Self.
真我はそれらの状態ではないが、それらの状態は真我のなかに在る。

If we get samadhi in our waking state, that will persist in deep sleep also.
もしわれわれが目覚めの状態でサマーディに入ったなら、
それは深い眠りのなかでもつづいていくだろう。

The distinction between consciousness and unconsciousness
belongs to the realm of mind,
which is transcended by the state of the real Self.
意識と無意識という区別は心の範疇に属している。
そしてそれらは真我の状態のなかで超越されるのである。

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)、アートマン・ブラフマンとマーヤーについて(1)、サマーディと『ヨーガ・スートラ』について

 

サマーディと『ヨーガ・スートラ』、
トゥリーヤ、
アートマンブラフマンとマーヤーについて

 

ブログを再開しましたので、この機会にと、
非常ーに久しぶりに、ちょこちょことスキマ時間で
ヨガ関連書籍を読み直しています。
懐かしいです!

勿論、ラマナ・マハルシの書籍(日本語版)2冊も再読しました~
今回は、加えて英語の語彙を増やす練習も出来て嬉しいです!
(でもぶっちゃけるとまだ全然増えてない、笑)

 

 

わたし自身の「ニルグナ・ブラフマン」メインの体験+実験観察他は、
2013年春から2016年秋くらいまでがピークで、

そのあとようやく(?)
「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」の方に移行してきまして、

それに伴い体感とか実験内容とかも色々変化を遂げてきているので、

今回、改めてこのあたりの話を読み返しながら、
めっちゃくちゃ頭が動いてるのがよくわかりました(笑)。

 【 あのころのデータ…あのころの記憶…あのころの疑問や己の状態… 】
 【 …………………。】
 【 し、しばしお待ちを!発掘します! 】

みたいな。(笑)

 

この「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」の話ですが、
やっぱりマハルシもしてらしたので、
しかもその説明である「シャンカラのマーヤーについての解説」が秀逸すぎるので、
今回の記事の最後のテーマでご紹介します。

※参考:シャンカラ - Wikipedia 

 


 

ウパニシャッドもまた読み直したんですが、
「トゥリーヤ」が出てくるいちばん有名な(?)ウパニシャッド
『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』になるのかなと。

他にもちょこちょこ出てきてました。

 

で、個人的にめっちゃめっちゃ好きで、絶対に紹介する気満々の(笑)
『カイヴァリヤ・ウパニシャッド』は、
「トゥリーヤ」じゃなくて「アートマン」という言葉で
この、①起きてるとき、②夢見ながら寝てるとき、③熟睡してるときの
説明をしていました。

 

  

この「カイヴァリヤ」という言葉は、
『ヨーガ・スートラ』第4章のタイトル(カイヴァリヤ・パダ)や、
その『ヨーガ・スートラ』の第3章&第4章の一番最後のスートラとかに出てきます。

曰く、
プルシャとして本性の確立、かの無上なる独存の境地!
(翻訳英単語も日本語もおそらく先生や訳者によってちょっとずつ違うと思います)

※参考:ヨーガ・スートラ - Wikipedia 

 

……あっ!

今見たら、ウィキペディアのヨーガ・スートラのページに載ってる8階梯の説明が
以前にわたしが読んだことあったときよりめっちゃ詳しくなってた…
ていうかニヤマで求められるレベル高っ!(笑)

…………

いやちょっと待った。

 

 

「サマーディ」と『ヨーガ・スートラ』について

 

…今、ウィキペディアのヨーガ・スートラのページを読んで(笑)
ちょっと気になったので書いておきます。

でも、このテーマは今回のメインテーマのつもりでは全くなかったので、
さらっと流します…。

 

  1. 「ヤマ」 :制戒
  2. 「ニヤマ」 :内制
  3. アーサナ」 :座法
  4. 「プラーナーヤーマ」 :調息
  5. 「プラッティーヤハーラ」 :制感
  6. 「ダーラナー」 :凝念
  7. 「ディヤーナ」 :静慮
  8. 「サマーディ」 :三昧

 

この8階梯は、
『ヨーガ・スートラ』の第2章29節から第3章7節に載っています。

第3章の4~7節は、
「ダーラナ」+「ディヤーナ」+「サマーディ」をあわせた
「サンヤマ」or「サムヤマ」の話が載ってます。
(これが三支で、第4章で、もう一度この「サムヤマ」の話が出てきます。)

 

で、
この8階梯についての説明を(第2章29節から第3章7節まで)ずっとしてきて、
その次のスートラ、第3章8節に、

 

 

तदपि बहिरङ्गं निर्बीजस्य
Tadapi bahiraṅgaṁ nirbījasya

  訳①:
  しかしそれらでさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。
  訳②:
  これらの三支さえも、
  無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。

 

解説①:
それだから、あの種子を持たぬサマーディに比べると、これらでさえ外側である。
われわれはまだ真のサマーディ、最高の段階に達したのではなく、
一つのより低い境地に達したのだ。

その中にはなお、われわれが見る通りの宇宙があり、
またその中に、これらすべての力もある。

解説②:
これらの三つは、前の五つの段階に比べると内的である。
しかしニルビージャ・サマーディに比べると、それらはまだ外的で粗大である。

 

※①の引用元:『ラージャ・ヨーガ』 
※②の引用元:『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 

 

という文章が続きます。

 

ですので、
ウィキペディアのヨーガ・スートラのページの、「サマーディ」についての

 『前2段階の結果として、思いが一種の停止状態に入り、
 思う側と思われる側という対立する関係を離れ、心は対象そのものになる。
 ヨーガ行者は生との関係、時間の支配も離れ、永遠の現在を生きる者となる。

 この解放された状態を「アーナンダ(喜悦)」という。』

ここの部分の説明なんですが、ちょっと注意が必要になります。

 

簡潔にいうと、この「サマーディ」が、
「サンスカーラ」(1章50節、2章10・11節、4章9、27節など)
消せない「サマーディ」の場合だと、

まだ解放されたわけではなく、自我(エゴ)復活の可能性が残ってしまいます。

(この「サンスカーラ」の類似語は「ヴァーサナー」とか「クレーシャ」とかです。)

(……いずれまとめるかもしれません。)

 

 

『ヨーガ・スートラ』の第1章の章題は
「サマーディ・パダ」(三昧部門)というのですが、

タイトル通り(笑)、
「サマーディ」についての説明が多々載っています。

 

つまり、「サマーディ」と呼ばれる状態は、たくさんあるのです。実は。

 

「トゥリーヤ」≒「トゥリーヤーティータ」は、
 =「アートマン」=「サマーディ」なんですが、

「サマーディ」という言葉で示される状態は、
「トゥリーヤ」や「アートマン」以外にも存在してます。

 

…数学の…「逆は偽である」でしたっけ…
6の倍数は常に2の倍数だが、2の倍数は常に6の倍数にはならない、
みたいなやつ(笑)。

あんなかんじです。(笑)

 

 

以下が、
『ヨーガ・スートラ』に載っている「サマーディ」の簡単なリストです。

(興味がある方は、是非、『ヨーガ・スートラ』を読んでみてください~!✨)

 

  • 「サムプラジュニャータ・サマーディ」(4つ) …1章17節、19~41節

      ①「サヴィタルカ・サマーディ」 …1章17&42節
             →「ニルヴィタルカ・サマーディ」 …1章43節

      ②「サヴィチャーラ・サマーディ」 …1章17&44節
             →「ニルヴィチャーラ・サマーディ」 …1章44、47節

      ③「サアーナンダ・サマーディ」 …1章17節
            (→「ニルアーナンダ・サマーディ」?)

      ④「サアスミター・サマーディ」 …1章17節
             (→「ニルアスミター・サマーディ」??)

  • 「アサムプラジュニャータ・サマーディ」 …1章18節

 

…あ、ラマナ・マハルシの教えてらっしゃった「私とは誰か?」の問いって、
④「サアスミター・サマーディ」あたりの話なんですね。(今気付いた)

「サアスミター・サマーディ」から
(この名があるのかどうかわからないけど、笑)「ニルアスミター・サマーディ」に
誘導しようとしてらっしゃるわけですね。

なるほどなるほど。

 

あー、そうすると、ちょくちょく話題に出てきていた
「アーナンダ」(至福)が真我実現の障害になる、それすら超えていきなさい
という話の「アーナンダ」っていうのは、③あたりの話なんですね。


なるほどなるほど。

わたしも、『ヨーガ・スートラ』もまたもう1回、いつかじっくり読み直そう…!✨

 

 

  • 「サヴィージャ・サマーディ」 …1章46節

  • 「ニルヴィージャ・サマーディ」 …1章51節、3章8節

 

  • 「ダルマメガー・サマーディ」 …4章29~33節

  • 「カイヴァリヤ」 …3章56節、4章34節

 

…このカタカナに慣れるまでがほんと長かったんだ…(しみじみ)

だって、日本語だと、本によって日本語訳が違ってもっとわかんないんだもん(涙)
カタカナに慣れるしかなかったんだ…(涙)

 

 

そして、スワミ・サッチダーナンダさんは、

 

  • 「アサムプラジュニャータ・サマーディ」において
    ジーヴァン・ムクタ」ジーヴァン「生ける者」+ムクタ「解放された」)
    になる

  • 「ニルヴィージャ・サマーディ」(無種子三昧)
    「ニルヴィカルパ・サマーディ」(日本語訳は無分別三昧など)と同じ。

    「ニルヴィージャ・サマーディ」最高の「サマーディ」で、
    完全に自由となる。

  • 「リタムパラー・プラジュニャー」が得られる
    「ニルヴィチャーラ・サマーディ」においてジーヴァン・ムクタ」になる

  • 「ダルマメガー・サマーディ」においてジーヴァン・ムクタ」になる

『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 参照)

 

みたいな説明をなさっています。
(ざざっと読んで発見できたところだけまとめてみました)

 

……あ、
ジーヴァン・ムクタ」というのは、自我の終焉後=真我実現後の人のことです。

「カイヴァリヤ」も同じ意味です。

同じく「完全に自由」な状態です。

 

 

スートラの解説って、先生によっても(本によっても)ほんっとに違うんで、
単語そのものではなく、その説明内容や定義をじっくり聞かないと
混乱に拍車をかけるかとおもいます(経験者は語る、笑)。

ので、
そこは頭を切り替えて読んでから、自分のなかでまとめる作業をすると
良いとおもいます。

自分のサマーディ(やアートマンやトゥリーヤ)体験が増えれば増えるほど、
知識理解も一緒に深まっていきます。

 

そんなわけで、
是非(笑)、
「サマーディ」は「サマーディ」でも、
青緑色とか黄緑色の「サマーディ」まで目指してください!

 

 

…しかし、「アーナンダ」の日本語訳、喜悦か……
いや、「喜び」かと問われれば勿論そうなんですけど、「悦」……(゜-゜)

 


 

あともうひとつ気になったのが、
この(主観的な)「永遠の現在」についてなんですが、
 

 

真我を実現したら、永遠の現在がデフォルト(標準装備状態)になるので、
その状態になりたい方には一石二鳥(?)だと思います。

 

 

ただ、「永遠の現在を生きる者となる」っていうよりは、
「永遠の現在にしか生きられなくなる」って感じです。

過去の記憶も使えるし、未来の計画もたてられるけど、
基本的には現在にしか生きられない。

自然というか、自動的というか、強制的です。

 

強制的現在です。(大事なところなので2度書く。笑)

 

それでよければ(?)、(主観的)現在に生きるのが自然になります。

 

"Be Here Now" Is Always Our Nature!

 


 

そういえば、ノーマインド(でしたっけ?)も、標準装着できます。

「考えるな!感じろ!」ⓒ ブルース・リー、みたいなやつですよね。

 

これについては、
オーロビンドは「オーバーマインド」って言ってた気がするのですが、

 

………あれ?
オーロビンド@ウィキペディアのページも、数年前より内容増えた気が…(笑)

この「スーパーマインド」の説明初めて見ましたが、この説明いいですね!

めっちゃそんな感じです!!

 

あと、

彼はヴェーダーンタ哲学の代表的な思想の一つである
不二一元論(アドヴァイタ)の 幻影論(Mayavada)に異を唱えた。

幻影論は基本的に
この世界がどこまでいっても破壊と再生を繰り返す、
ブラフマンの絶対性とは程遠い相対的なものだとする。

しかしオーロビンドは
この世界も、その内の人間も絶対性を獲得しうると主張した。


ここめっちゃいい!!!

わたしもこっちに賛成一票!!!!(後述)

 

もとい。(笑)

えー、彼はたしか、
「知性とは別の源」とか「overmind consciousness」とか
言ってたと思うんですけど、

『ババジと18人のシッダ―クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道』参照)

 

今までのマインドがなくなるというか、
「今までできていた 考えるというやりかた」自体ができなくなるというか、
今までのマインドの使い方ができなくなるので、何とかして変えるしかないというか、
そういう状況になるので、

自然というか、自動的というか、強制的ノーマインドになれます。

 

こちらも同じく強制的ノーマインドです。(大事なところなので2度書く。笑)

 

めっちゃくちゃ、頭の中が、静かになるんです。

末恐ろしく静かになるんです。

 

脳内おしゃべりもなくなります。

…すみません、「脳内おしゃべり」ってわたしの造語なんですけど(笑)
日本語だと、考えとか思考とかでしょうか。たぶん英語だとthoughtだと思います。

それが、全くなくなります。

 

あ、
声に出さずに頭の中だけで言葉にするというのは出来ますが、
めっちゃ静かなところでそれをすることになるので、
今までとは全く変わった変な感じになります。(笑)

でもそのうち慣れると思います。

 

で、新しく、
以前使えていた思考の領域みたいなとことは別の場所、
まさに、マインドを超えた領域(over mind)って表現したくなるような場所から、
全部降ってくる…沸いてくる…現れる……ようになります。

「インスピレーション」とかの言葉の表現でいいんでしょうか。

「考える」代わりに、
インスピレーションで構築する(?)みたいな感じになります。

それが基本装備になります。

 


 

あー、あと、
集中系とか観察系とかのスキルアップもじわじわきます。

これも、やっぱりやりかたは以前と変える必要はあるんですが、
(自我期のマインドが使えないので仕方ない

できるのはできます。

 

そして、めっちゃじわじわ向上していくので、
頭を使う作業をする必要があるときには、便利です。

 

 

プライベートでは、
わたしは頭は使ってない気がするんですけど…

 

……家事………食事の栄養のバランス………収支計算………送り迎えの渋滞回避術……

…あ、来年からでしたっけ?
小学校からプログラミングの授業が必修になるんですよね!
あれは面白そうだから、わたしも一緒にやりたい(笑)
何の言語使うんやろ?

くらいか…

 

やっぱり、プライベートでは、
いかに楽をするか(笑)、いかにして恋の情熱と愛の安らぎをお互いが両立させるか、
いかにして楽であるか(笑)、いかにして幸せを日常生活の中で表現するか、
いかにして休息を効率よくとるか(笑)、いかにして楽しくくつろいでやるか、
あたりを大事にしているので、頭は9割使ってないんですけど、

(むしろ使うのは身体と情緒面やな…)

 

(……あ、そういえば、真我(アートマン)が永久化したら、
 肉体そのものや五感情報の体感とか、感情の使い方+感じ方も、
 自我のときからは勿論激変します。
 別に、自我期のものが何故か使えなくなるという謎は、マインドに限りません。
 全部新調です。笑)

 

@仕事は、頭使った方が便利なときは非常に使いますので、
効率上がってくれるにこしたことはないです。(感謝)

あと、やっぱり、どんなことのなかにも、楽しさを見つけていきたいですし。

 

昨日の自分より今日の自分の方が必ず一歩成長します。
自分で実感できます。

 

だから、サマタ瞑想とか、ヴィパッサナー瞑想orマインドフルネスとかと
併用すると相乗効果めっちゃありそう♡、とも思ってます。

 

S o , L e t ' s B e y o u r R e a l S e l f F o r E v e r F i r s t ♡

 


 

もとい。

 

前述8階梯が載っている『ヨーガ・スートラ』は
「ラージャ・ヨーガ」の聖典になるんですが、

※参考:ラージャ・ヨーガ - Wikipedia 

「ラージャ・ヨーガ」自体は、
ヴィヴェーカーナンダが、「教師の直接指導のもと行わないと危険だからね」って
本の前書きで言ってたので、

※参考:ヴィヴェーカーナンダ - Wikipedia 

…あ、わたし、今生のとくに最初の頃は、
ヴィヴェーカーナンダ超ーカッコいい!!!*≧∀≦*という
このファン心理のみでヨガ街道を爆走してたので、(事実、笑)
ヴィヴェーカーナンダのアドバイス(の中で当時理解できたもの、笑)は
全部忠実に守ってました(笑)

 

「ヤマ」、「ニヤマ」は自分なりに挑戦しながら、
残りの5つを教えてくれる先生を探したんですよ。

 

 

で、「アーサナ」は、
当時近くで教えてくださってたハタ・ヨガ系の先生から習えたんですが、
そこで行き詰ってたんですよねー…。

 

インドに縁ある先生でインドと日本を行き来なさってたので、
インドのお土産にヨガ関連の本を買って来て戴いたり

クリシュナムルティとかOshoとかシュリ・シュリ・ラビ・シャンカールとか
 英語だったけど頑張って読みましたよー。
 しかし、発行元がインドになるせいなのか、調べても発見できない…)

インド人のハタ・ヨガの先生を呼んでくださったりとかで、
めっちゃめちゃありがたかったんですが(感謝)

 

(その先生のところには週1回、1年半くらい通ったかと)
(懐かしいー!)
(他の先生のところもあちこち訪ね歩いてたんですけどね、笑)
(そらだって、こっちも超本気で先生探してるからさあ。)

 

『ヨーガ・スートラ』そのものを教えてらっしゃるわけではなかったので、

呼吸法以上の部分の「プラーナーヤーマ」とか、
「プラッティヤハーラ」「ダーラナー」「ディヤーナ」「サマーディ」は
習えなかったんですよ。

懐かしいなー。

もう10年以上前の話やからなー。

 


 

さて、今回の記事は
ラマナ・マハルシの講話を紹介させていただいているので、
せっかくなので彼のサマーディの区分も是非ご紹介したいと思います。

非常にシンプルです。

 

  • サヴィカルパ・ サマーディ

    ・不断の努力によって、真我の自覚を保つ。
    ・このサマーディを継続し続けられるかどうかは、その本人の努力の維持に
     かかっている。
  • ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ

     ・自我が完全に消去されたわけではない、が、努力も必要ではない
      一時的な「アートマン」状態。
     ・身体意識はない。
     ・感覚的な情報(五感の情報)を知覚することができない。
     ・世界の中で機能することもできない。
     ・身体意識が戻ると、自我も再び現れる。
  • サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ

     ・自我を、完全に、二度と現れることのないまでに消し去った状態。
     ・普通の人々のように、世界のなかで自然に機能することができる。

 

…市井に生きている現代人なら、
3つめの「サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ」を目指すのが
一番よいのではないかとわたしも思います。

この3つめが、「ジーヴァン・ムクタ」で「カイヴァリヤ」です。

 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)

 

 

 

長い雑談、もといまえがき(?)はそろそろ終わりにして、本題に入ります。

 

今回引用させていただいた、最初の睡眠についての質問一連は、
さながら禅問答のようですが(笑)、
(質問者が3回も粘って質問したのが面白かった、笑)

「トゥリーヤ」から切り込んで指導する時はこういう導き方もしますね。

インドのスワミ(お坊さま)からこのやり方を聞いたことあります&
本でも読んだことあります。

 

しかし、この質問は、日本人から自発的にはでてこないと思います。(笑)

(これは前提文化的に無理だと思う…)

 

 

あ、そういえば、『シヴァ・スートラ』にも「トゥリーヤ」の説明は
出てくるんですけど、
軽く調べた限りでは、日本語翻訳バージョンは出版されてないようです。
残念。

 

英語版は1冊しか持ってないから、
他の先生または解説者が別の説明をしてるのかどうかまでは
ちょっとわからないんですけど、
少なくともスートラ7の本文に、「トゥリーヤ」という単語が出てくるんですよ。

英語+わたしの和訳でよければ、将来そのあたりのスートラを
ご紹介できたらとは思います。

…覚えていればちゃんとやります。(笑)

 

 

Is one nearer to pure consiousness in deep sleep than
in the waking state?

人は 目覚めの状態よりも
深い眠りのなかにいるとき、より純粋意識の状態に近いのですか?

 

The sleep, dream and waking states are mere phenomena
appearing on the Self which is itself stationary.

眠り、夢見、目覚めの状態は、不動の真我の上に現れた 単なる現象にすぎない。

 

It is also a state of simple awareness.
真我は純粋な覚醒の状態でもある。

 

Can anyone remain away from the Self at any moment?
This question can arise only if that were possible.

誰であれ、一瞬でも真我から離れて在ることができるだろうか?
それが可能であればこの質問も起こりうるだろうが、それはありえない。

 

Is it not often said that one is nearer pure consiousness
in deep sleep than in the waking state?

人は 目覚めの状態よりも 深い眠りのなかにいるとき、
より純粋意識の状態に近いと言われるのではないでしょうか?

 

The question may as well be
"Am I nearer to myself in my sleep than in my waking state?"

その質問は、
「目覚めの状態よりも深い眠りのなかにいるとき、
私は私自身により近いのでしょうか?」
と言ってもよいだろう。

 

The Self is pure consuiousness.
No one can ever be away from the Self.

真我とは純粋な意識である。
誰も真我から離れて在ることはできない。

 

The question is possible only if there is duality.
そこに二元性があるときだけ、その質問が可能なのだ。

 

But there is no duality in the state of pure consiousness.
だが、純粋意識のなかに二元性はない。

 

The same person sleeps, dreams and waking up.
The waking state is considered to be full of beautiful and interesting things.
The absence of such experience makes one say that the sleep state is dull.

同じ人が眠り、夢を見、目覚める。
目覚めの状態は美しく、興味深いもので満ちていると考えられている。
そのような体験が不在であるため、眠りの状態は退屈なものだと人は言う。

 

Before we proceed further let us make this point clear.
Do you not admit that you exist in your sleep?

先に進む前に、この点について明確にしておこう。
あなたは眠りの中でも存在しているということを認めるだろうか?

 

Yes, I do.
はい。認めます。

 

you are the same person that is now awake?
Is it not so?

あなたは今ここで目覚めているその同じ人ではないのかね?

 

Yes.
そうです。

 

So there is a continuity in the sleep and the waking states.
What is that continuity?

つまり眠りと目覚めの状態には継続性があるということだ。
その継続性とは何だろう?

 

It is only the state of pure being.
それが純粋な存在状態である。

 

There is a difference in the two states.
What is that difference?

二つの状態には違いがある。
何がその違いだろう?

 

The incidents, namely, the body, the world and objects appear in the waking state
but they disappear in sleep.

出来事、つまり身体、世界、ものごとは目覚めの状態のなかには現れるが、
眠りのなかでは消え去るのである。

 

But I am not aware in my sleep.
しかし、眠りのなかでは、私は気づいていませんでした。

 

Ture, there is no awareness of the body or of the world.
確かに、眠りのなかでは身体や世界に気づいていない。

But you must exist in your sleep
in order to say now "I was not aware in my sleep".

だが、今「眠りのなかで私は気づいていなかった」と言うためには、
眠りのなかにあなたが存在していなければならない。

 

Who says so now?
今、それを言うのは誰だろうか? 

It is the wakeful person.
The sleeper cannot say so.

それは目を覚ました人である。
眠っている人がそう言うことはできない。

 

That is to say,
the individual who is now identifying the Self with the body says
that such awareness did not exist in sleep.

ということは、
真我と身体を同一視している個人が、眠りの間そのような自覚はなかった
と言うのである。

 

Because you identify yourself with the body,
you see the world around you and say that
the waking state is filled with beautiful and interesting things.

あなたは自分自身と身体を同一視するために、
あなたのまわりに世界を見て、それから
目覚めの状態は美しいものや興味深いものでいっぱいだと言うのだ。 

The sleep state appears dull
because you were not there as an individual and therefore these things were not.

眠りの状態は退屈なように見える。
なぜならあなたがそこに個人として存在せず、
それゆえ、それらのものもそこにないからである。

 

But what is the fact?
しかし、事実はどうだろう?

 

There is the continuity of being in all the three states,
but no continuity of the individual and the objects.

三つの状態すべてのなかに存在の感覚は継続しているが、
個人やものごとの継続性はそこにないのである。

 

Yes.
そのとおりです。

 

That whitch is continuous is also enduring, that is permanent.
継続するものは不変であり、永続する。

That which is discontinuous is transitory.
断続的なものは一時的である。

 

Yes.
はい。

 

Therefore the state of being is permanent
and the body and the world are not.

それゆえ、存在の状態は永久的であり、
身体や世界は一時的なものである。

 

They are fleeting phenomena
passing on the screen of being-consiousness which is eteranal and stationary.

それらは 不変不滅の存在― 意識のスクリーン上を通り過ぎる
つかの間の現象にすぎない。

 

Relatively speaking, is not the sleep state
nearer to pure consiousness than the waking state?

比較して言えば、目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、
より純粋意識の状態に近いのではないでしょうか?

 

Yes, in this sense:
when passing from sleep to waking
the "I"-thought [indiviual self] must start and the mind mustcome into play.
Then thoughts arise and the functions of the body come into operation.
All these together make us say that we are awake.

その意味においては、そうである。
眠りから目覚めへと移行するとき、
「私」という想念(個我)が立ち現れ、心が活動しはじめる。
それからあらゆる類の想念がつづき、身体の機能が作用しはじめる。
これらすべてがわれわれに目覚めたと言わせるのである。

 

The absense of all this evolution is the characteristic of sleep
and therefore it is nearer to pure consuiousness than the waking state.

このような展開のすべての不在が眠りの特徴であり、
それゆえ、目覚めの状態よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。

 

But one should not therefore desire to be always in sleep.
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。

 

In the first place it is impossible,
for it will necessarily alternate with the other states.

第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないからである。

 

Secondly it cannot be the state of bliss in which the jnani is,
for his state is permanent and not althernating.

第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で、不変のものだからである。

 

Moreover, the sleep state is not reccognized to be one of awareness by people,
but the sage is always aware.

しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。

Thus the sleep state differs from the state in which the sage is established.
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。

 

Still more, the sleep state is free from thought and their impression on the individual.
さらに、眠りの状態は個人的想念や印象から自由だ。

It cannnot be altered by one's will because effort is impossible in that condition.

その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。

Although nearer to pure consiousness, it is not fit for efforts to realize the Self.

純粋意識により近い状態でありながら、
眠りの状態は真我を実現するための努力と相いれないものなのである。

 

 

Does a jnani have dreams?
ジニャーニは夢を見るのでしょうか?

 

Yes, he does dream,
but he knows it to be a dream,
in the same way as he knows the waking state to be a dream.

確かに彼は夢を見る。
だが、彼は目覚めの状態が夢であることを知っているように、
夢が夢であることを知っている。

 

You may call them dream no.1 and dream no.2.
それらは第一の夢、第二の夢と呼んでもいいだろう。

 

The jnani being established in the fourth state ― turiya, the supreme reality ―
he detachedly witnesses the three other states,
waking, dreaming and dreamless sleep, as pictures superimposed on it.

ジニャーニは
至高の実在であるトゥリーヤ、第四の状態のなかに確立されているため、
目覚め、夢見、眠りという他の三つの状態を
真我というスクリーン上の画像として、
超然ととらわれないまま目撃しているのである。

 

For those who experience waking, dream and sleep,
the state of wakeful sleep, which is beyond those three states,
is named turiya [the fourth].

目覚め、夢見、眠りの状態を体験している者たちにとって、
それら三つの状態を超えた「目覚めた眠り」という状態は
トゥリーヤ(第四段階)と呼ばれている。

 

But since that turiya alone exists
and since the seeming three states do not exist,
know for certain that turiya is itself turiyatita [that which transcends the fourth].

だが、実際はトゥリーヤだけが存在し、
ただの現れにすぎない三つの状態は存在しないのである。
それゆえ、
トゥリーヤ自体がトゥリーヤーティータ(第四段階を超越した状態)である
ということを知りなさい。

 

For the jnani then,
there is no distinction between the three states of mind?

それでは、ジニャーニにとって
三つの心の状態には何の区別もないのでしょうか?

 

How can there be,
when the mind itself is dissolved and lost in the light of consiousness?

区別などありえない。
心そのものが意識の光の中に溶けて、消え去ってしまったからだ。

 

For the jnani all the three states are equally unreal.
ジニャーニにとっては、三つの状態はみな同じように偽りなのだ。

 

But the ajnani is unable to comprehend this,
because for him the standard of reality is the waking state,
whereas for the jnani the standard of reality is reality itself.

だが、アジニャーニにはこのことが理解できない。
なぜなら、ジニャーニの実在の基準が実在そのものにあるのに対して、
アジニャーニの実在の基準は目覚めの状態にあるからである。

 

This reality of pure consciousness is eternal by its nature
and therefore subsists equally during what you call waking, dreaming and sleep.

純粋意識であるこの実在は、その本性からして永遠であり、
目覚め、夢見、眠りの状態を通してつねに存在している。

 

To him who is one with that reality there is neither the mind nor its three states and,
therefore neither introversion no extroversion.

その実在とひとつになった人にとっては、心も三つの状態も存在せず、
それゆえ、内面性も外面性もない。

 

His is the ever-waking state,
because he is awake to the eternal Self;

彼の状態は永遠に目覚めた状態だ。
なぜなら、彼は永遠の真我に目覚めたからである。

his is the ever-dreaming state,
because to him the world is no better than a repeatedly presented dream phenomenon;

彼の状態は永遠に夢見の状態にある。
なぜなら、彼にとって世界は繰り返し現れる夢という現象以上のものではないからだ。

his is the ever-sleeping state,
because he is at all times without the "body-am-I" consiousuness.

彼の状態は永遠の眠りの状態である。
なぜなら、彼はつねに「私は身体だ」という意識をもたないからである。

 

 

アートマンブラフマンとマーヤーについて(1)

 

 

If a man beats you, then, can you say,
"I am free, I am not bound by these beatings and I don't feel any pain.
Let him beat on"?
もし誰かがあなたを叩いたら、そのときあなたは
「私は自由だ。私はそのような殴打に拘束されない。私は何の痛みも感じない。
彼につづけて殴らせるがいい」
と言えるだろうか?

If you can feel like that, you can go on doing what you like.
もしそう感じるとすれば、何でもあなたの好きなようにすればよい。

What is the use of merely saying with your lips "I am free"?
ただ単に口先だけで「私は自由だ」と言うことが何の役に立つというのかね?

 

 

アートマン」=「ブラフマン」と「マーヤー」の話は、
「トゥリーヤ」の次にまとめようかなと思っているので(だから今回は(1))
今回の記事での単語説明は、ちょっと簡略化しました。

 

 

アートマン」とは:

 

世界(大宇宙)の中に存在している、個々の存在(生物・無生物)(小宇宙)を
取り扱うときに使われることが多い言葉です。

わたしたち人間の場合は、
肉体、オーラや気(位置としてはこのあたりの強さの気です。結構強いやつです)、
感情、考え、記憶、「俺・僕・わたしっていう何か(自我)」
ではないもの
です。

(昔も言ってた気がするけど、「ニルグナ・アートマン」です。)

※参考:アートマン - Wikipedia

 

 

ブラフマン」とは:

 

主に、外界、世界(大宇宙)を取り扱うときに使われる言葉です。

この「ブラフマン」は、2つに区分されます。

 

  1. ニルグナ・ブラフマン

    ウィキペディアのブラフマンのページの説明の通り、(笑)
    「外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実」
    です。

    別の視点から言うと、
     ・Everywhere : いたるところ・あらゆるところ・すべてにあまねく存在する
        +
     ・Everytime : 今も、いつも、いつでも、常に、永遠に存在する
    もポイントかなと思います。

    この「ニルグナ・ブラフマン」が、=「アートマン」です。
    (「ニルグナ・ブラフマン」=「アートマン」であると自覚することを、
    タットゥ・トヴァム・アシ、日本語訳だと「梵我一如」と表現します。)

    全宇宙全生命は、この中に生まれ、生き、消えていきます。


  2. サグナ・ブラフマン

    こーれが説明難しいねんて!(笑)

    …マハルシは「イーシュワラ神」で説明なさってますね。
    『バガヴァッド・ギーター』だと10章と11章が最高潮かなと思います。
    うーーーーーーーーん…(/ω\)

    「ニルグナ・ブラフマン」+
    「至高の(人格)神」+
    「リアル全知全能」+
    「万物創造(と維持と破壊)は彼or彼女orそれの力」+
    「自身は中立だが、常に善を支持する」+
    「『わたしの身体のほんの一部分で、この全宇宙を支えてる』とか
     言っちゃう無双ぶり」+
    以下無限。

※参考:梵我一如 - Wikipedia

 

 

……あ、
今、ウィキペディア梵我一如のページで、

個人の肉体が死を迎えても、アートマンは永遠に存続するということであり、
アートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもある。

っていう説明を読んだんですけど、

 

そういう日本語訳の文章というか、
そういう文章がヴェーダとかウパニシャッドとかにあるのは知ってるんですけど、

現時点のわたしの感想だと、「アートマン」(真我)は輪廻はしないです。

 

新しい肉体を得る根拠が「アートマン」だ、という表現を使われると、
まあ、そら、「アートマン」なくして何ものも存在できないからね…、
という話になるので否定はしませんが、(笑)

アートマン」(真我)は、輪廻転生を、しません。

 

輪廻(をすると思われるもの)は、「アートマン」には属しません。

 

アートマン」=「ニルグナ・ブラフマン」の中にあります。

輪廻って、映画の中の話、マーヤーの中の話だから。

 

個人的には、
仏教(原始仏教になるんでしょうか)の「悟りの階梯」、
「四向四果」は抵抗がないといいますか、
「何これめっちゃ面白い!」って思って読んでいた派で、

"「不還果」の時の無我体験で、「五下分結」がぶった切られる"

という説明に似た、その五下分結の消滅のような体験も、今生でやりました。

※参考:四向四果 - Wikipedia

 

うん、なんかね、一撃でほんとに全部なくなったんですよ。

だから逆に、本でそこの説明を拝見した時に、
「あ、そういうものなんだね」って腑に落ちてちょっとうれしかったです(感謝)。

その話は初情報だったので。

 

ただ、わたし、今生は出家できる環境になかったし、(ここ決定打)
そもそも今、生活の9割を、スピリチュアルすら無縁な環境に置いているんで、
変な自己主張して波風立たせるのもどうかなと思って(笑)
その後もちゃんと関わってました。

 

で、ウィキペディアで読んだ限りの仏教系の輪廻転生の説明も、
賛成っていうか、その通りだと思っているので(笑)、

まあ、おそらく、シンプルに、「アートマン」に対して誤解があるのだと思います。

 

過去生については、
わたし自身は、
ちょこちょこ思い出してはいるんですけど、

ほんまにどこまでも合理的よなこいつ(誰)、っていうか、

「過去生のときに痛い目に遭ったのが原因で、今生でも怖がっている」とか、
「過去生でも何回か挑戦したけど、まだこなしきっていないテーマなので、
今生でももう一回このイベントが起きている」とか、

そこを変えておきたいとか、この課題クリアしたいとか、
そういう理由以外では一切思い出しやがらないんです。(笑)

 

魔女狩りはされてないけど、拷問はされたらしいとかね、(微笑)
そういうのは思い出したけど、
良い思い出(?)は、必要がない限り、まっっっっったく浮上しないですね。

 

余計な情報を与えて
アートマンブラフマン」を求める方向から 逸脱する or 逆走する
誘惑や障害なんぞ、これ以上増やしてなるものか!

っていう計画(笑)だったんだろうと思います。

誰やねんこのシナリオ書いたやつ。(笑)

 

まあ、どちらにしても、「アートマン」(真我)は輪廻しません。

卒業を推奨される輪廻転生をするのは、「自我」です。

サンスクリット語だと、「アハンカーラ」とか「アスミタ」とかかな?

 

 

「マーヤー」とは:

 

アートマン」&「ニルグナ・ブラフマン」以外のすべてです。

 

 

ただし、「サグナ・ブラフマンは、

現時点での🌎人類みたいに(?)
自分の真の本性「アートマン」=「ブラフマン」であることを忘れて
自我ったりはしていません。

「彼or彼女orそれ」は、常に、=「ニルグナ・ブラフマン」です。

言いかえれば、
常に、真我(アートマン=ニルグナブラフマン)を自覚してるし、実現もしています。

 

そして、「サグナ・ブラフマンは、

人類のジーヴァン・ムクタよりも、
インプット能力&アウトプット能力+データ保有力+マクロ⇆ミクロ度以下略が
凄まじいです。

あらゆることがすべてにおいて桁違いです。

 

まあたとえば、
『バガヴァッド・ギーター』第10章の最後にでてくるこの台詞が
わたしは個人的に(自我期から)ずっと一番強烈なんですが、
さっきも書いたんですけど、↓

 

「わたしは、わたしの身体のほんの一部分で、この全宇宙を支えているのだよ」

 

と言ってのけるくらいに桁違いです(笑)。

 

全宇宙が、身体のほんの一部分ですよ。

全宇宙が身体の全部ですらないんですよ、ほんの一部分ですからね。(笑)

 

これ絶対人類には言えないからね!(笑)

人間の体は、やっぱり、人間としての体だけですよ!(何だろうこの変な日本語、笑)

たとえば肉体なら、自分が食事をして栄養を循環させ得る範囲内までが
自分の体なわけですよ。

わたしがごはんをたべて、あなたの肉体に栄養がいくことはないわけですから。

 

何故こう言えるのかという「理由」だけは、
アートマン=ニルグナ・ブラフマン」になってたときに見てたからわかるんだけど、
わたし@人間のアートマンは絶対こんなセリフ言えないから!(笑)

無理!!(笑)

 

なので、「サグナ・ブラフマンは、

「マーヤー」を創った張本人(人じゃないけど)というか、
その支配者とかいう立ち位置になると思います。

※参考:マーヤー - Wikipedia

 

 

前述『ヨーガ・スートラ』だと、
アートマン」=「ブラフマン」と「マーヤー」という語彙よりも
「プルシャ」と「プラクリティ」という語彙をよくつかうんですが、
名前が違うだけで、同じものを示しています。

 


いや、詳しくいうと、"ヴェーダーンタ学派" と "サーンキヤ学派" の違いとか
"不二一元論" と "二元論" の違いとかあるんですけど、

その理由はマーヤー&プラクリティに対して
両方(二元モードと不二一元モード)を体験できるからじゃないかなと
個人的には思ってるとか、色々説明できるのですけど、

……
……
…………まあ…説明できますので、もしかしたらいずれ書くかもしれません。

※参考: サーンキヤ学派 - Wikipediaヴェーダーンタ学派 - Wikipedia 

 

あー
なるほど、
サーンキヤ学派の説明を使うと、
大宇宙のサグナの側面(世界)にそこまで関心を向けさせないから
内面探究路線だといいのかもしれないですね…。

 

「プルシャ」と「プラクリティ」の語彙と説明の仕方も、
実践に有用そうだったら、いずれまとめるかもしれません。

 

 

Brahman is real. The world [jagat] is "illusion"
is the stock phrase of Sri Sankaracharya.
Yet others say, "The world is reality."
Which is true?

ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」
とはシュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句です。
しかし、別の人達は「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?

 

Both statements are true.
They refer to different stages of development and
are spoken from differnt point of view.

どちらの言葉も真実である。
それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。

 

  1. The aspirant [abhyasi] starts with the difinition,
    that which is real exist always.
    真理の探究者(アビャーシ)は、
    「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。

  2. Then he eliminates the world as unreal because it is changing.
    それから彼は世界を非実在として捨て去る。
    なぜなら世界は変化するものだからである。

  3. The seeker ultimately reaches the Self
    and there finds unity as the prevailing note.
    このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、
    探究者は究極的に真我にたどり着く。
    その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見出す。

    Then, that which was originally rejected as being unreal is found
    to be a part of unity.

    そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、
    ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。

 

 

Being absorbed in the reality, the world also is real.
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。

 

There is only being in Self-realization, and nothing but being.
真我の実現の中にはただ存在だけがあり、他には何もない。

 

 

Sri Bhagavan often says that
maya [illusion] and reality are the same.
How can that be?

バガヴァーンは
マーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われます。
どうしてそれが可能なのでしょうか?

 

Sankara was criticised for his views on maya without being understood.
シャンカラーチャーリヤは
彼のマーヤーの見解について、人びとから理解されないまま批判された。

 

He said that
彼はこのように言った。

  1. Brahman is real,
    ブラフマンは実在である

  2. the universe is unreal, and
    宇宙は非実在である、そして

  3. The universe is Brahman.
    宇宙はブラフマンである。

 

He did not stop at the second, because the third explains the other two.

彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。

 

It signifies that the universe is real if perceived as the Self,
and unreal if perceiverd apart from the Self.

それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、
真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。

 

Hence maya and reality are one and the same.
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

 

 

So the world is not really illusory?
そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?

 

At the level of the spiritual seeker
you have got to say that the world is an illusion.

真我の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。

There is no other way.
他に道はない。

 

When a man forgets that
he is Brahman, who is real, permanent and omnipresent,
and deludes himself into thinking that he is a body in the universe
which is filled with bodies that are transitory,
and labours under that delusion,
you have got to remind him that the world is unreal a delusion.

ある人が、自分は
実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンであるということを忘れ、
はかない身体であふれた宇宙のなかの ひとつの身体を
自分自身だと思い込んで、
その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、
あなたは彼に
世界は非実在でしかなく、それは迷妄だということを気づかせなければならない。

 

Why?
なぜか?

 

Because his vision which has forgotten its own Self is
dwelling in the external, material universe.
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、
外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。

 

It will not turn inwards into introspection
unless you impress on him that all this external, material universe is unreal.

あなたが 外側の物理的な世界は非実在だということを 彼の心に焼き付けないかぎり、
彼は内側に向かい内観することはないだろう。

 

When once he realises his own Self
he will know that there is nothing other than his own Self
and he will come to look upon the whole universe as Brahman.

ひとたび彼が真我を実現すれば、
彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。

There is no universe without the Self.
真我を離れて宇宙は存在しないからである。

 

So long as a man does not see the Self which is the origine of all,
but looks only at the external world as real and permanent,
you have to tell him that all this external universe is an illusion.

人が、すべての源である真我を見ずに、
外側の世界だけを実在で不変のものとして見ている限り、
あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。

 

You cannot help it.
それはどうすることもできない。

 

Take a paper.
We see only the script, and nobody notices the paper on which the script is written.

紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づく人はいない。

The paper is there whether the script on it is there or not.
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。

To those who look upon the script as real,
you have to say that it is unreal, an illusion, since it rests upon the paper.

あなたは文字だけを実在だと見なしている人に、
それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。

 

The wise man looks upon both the paper and script as one.
So also with Brahman and the universe.

賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンも宇宙もひとつとして見るのである。

 

 

So the world is real when it is experienced as the Self
and unreal when it is seen as separate names and forms?

それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、
個々に分離した名前と形として見られたとき
世界は非実在なのでしょうか?

 

Just as fire is obscured by smoke,
the shining light of consiousness is obscured
by the assemblage of names and forms, the world.

炎で煙が隠されてしまうように、
意識の輝く光は 世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。

 

When by compassionate divine grace the mind becomes clear,
the nature of the world will be known to be not the illusory forms but only the reality.

慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、
世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。

 

Only those people whose minds are devoid of the evil power of maya,
having given up the knowledge of the world and being unattached to it,
and having thereby attained the knowledge of the self-shining supreme realty,
can correctly know the mening of the statement "The world is real".

心がマーヤーの邪悪な力から解放され、
世界の知識を知って無執着となり、
自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが、
「世界が実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。

 

If one's outlook has been transformed to the nature of real knowledge,
the world of the five elements beginning with ether [akasa] will be real,
being the supreme reality, which is the nature of knowledge.

もし真理の知識の本質に沿って世界観が変容すれば、
エーテルアーカーシャ)から始まる五つの元素でできた世界は
至高の真理の実在として見られるだろう。

 

The original state
of this empty world, which is bewildering and crowded with many names and forms,
is bliss,
which is one, just as the egg-yolk of a multi-coloured peacock is only one.

多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の
原初の状態は至福であり、
多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。

 

Know this truth by abiding in the state of Self.
真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。

 

 

I cannot say it is all clear to me.
Is the world that is seen, felt and sensed by s in so many ways
something like a dream, an illusion?

まだ完全に理解できたとは言えません。
私たちがさまざまな方法で、見、感じ、触れているこの世界は
何か夢のようなもの、幻想なのでしょうか?

 

There is no alternative for you but to accept the world as unreal
if you are seeking the truth and the truth alone.

もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、
世界を非実在として受け入れる以外に方法はない。

 

Why so?
なぜでしょうか?

 

For the simple reason that
unless you give up the idea that the world is real
your mind will always be after it.

その理由は明らかだ。
世界が実在だという考えをあなたが棄て去らないかぎり、
あなたの心はいつも世界を追い求めるからである。

 

If you take the appearance to be real
you will never know the real itself,
although it is the real alone that exists.

存在するものは実在だけであるにもかかわらず、
現れを実在とみなせば、
実在そのものを知ることはけっしてできないだろう。

  

 


流石は最短距離ルート、Everything is 直球…!


もとい(笑)

マーヤーだー、幻想だー、非実在だー、
という仮説(実感していなかぎりは、あなたにとっては仮説です)を
入手したからと言って、

「世界は幻想なんだああああああああああ」と
頭で思い込んだり信じ込んだりして妄想をつくりだす必要は全くないです。


あなたが本当に真我になったら、
「世界が幻想でしかない」と言うしかないときもくるので大丈夫です。(?)


そのかわり、
マハルシや、
シャンカラーチャーリヤことシャンカラの指導の意図を、
きっちりと理解してください。



外 側 の 世 界 を 追 う な 。
自 分 の 内 側 の 中 心 へ 戻 れ 。



これが、最初の必須要項だということです。


「永久的に」真我の状態をキープしたければ、
@世界の中での、あらゆる
願望、あらゆる執着を、
一度は、
必ず、
完全に全て
棄て去りきる必要があります。

自我は、「アビィアーサ」(修習)と「ヴァイラーギャ」(離欲、無執着)を
行う必要がある、と言われるのは、
シンプルに、
真我の永久的実現のためには、それが絶対に必要だからです。

たとえば、
この「トゥリーヤ」の理屈を、「アートマン」の定義を、
たとえ頭で理解できても、たとえ頭で納得しても、
それ以外のものへの接着(笑)を、
(一度)本当に完全に捨てなければ、永久化ができないからです。

それが、どれだけ、
あなたにとって、他者にとって、良い願望、善い目的であっても、
一度は、必ず、完全に、捨てることになります。



この条件を緩めて、
自我の狡猾な策略に引っかからないようにしましょう。


例外は絶対にありません。




(ですので、Master.D.K.の♒班とは、ここで、内心においては一旦道を違えます。)
(真我実現後に、内心もまた再合流は可能だと思いますが。笑)



まあ、ほんとうに、
過去生からコレだけのために修行してきてたら、
消滅に協力する好意的な自我(笑)になってる可能性はあるんですけど、
それでも、
自我自身にはどうしても見抜けないところがでてくるんです。



そして、この放棄しろという指示についてですが、
原則として、その「無執着」は、全て、内心の問題です。



もしもあなたが、もともとお金持ちで、今は天涯孤独とかなら、かなり幸運です。
とてもラッキーです。

しかし、そうじゃない場合は、普通に現代日本で生活してたら、
人間や社会と何らかの形で関わらないと、
スピリチュアルプラクティス(修練)の環境すら維持できないので、
仕事を放棄しろ社会から去れとか言われても、無理です。(笑)

たとえ、お坊さんとか神主さんとかの職業でも、
同僚(?)とか檀家さんとか来訪者とかと関わるだろうし…。




…正直なところ、
ほんとに最期が近づいてきた終盤戦では、

現時点(2019年11月現在)では、

どの道を歩んでいたとしても、
本気の修行仲間
以外の人間との物理的接触までも、
減らせるならば、可能な限り減らすことをお勧めします。

無理のない範囲で、しかし、可能な限り、減らした方が良いです。

まあ、わたしも、接触ゼロにはできなかったんで、
無理ならいいのですけれども(内面さえできれば問題ないので)、

あなたが本当に本気であるならば、
この助言の理由は、身をもって体験して思い知ると思います。

…そんなあなたに、
別ジャンル(?)ながら超~有名な先生からの、涙を誘うアドバイスがこれです。




犀 の 角 の よ う に た だ 独 り 歩 め 。





自我がきっちり死に絶えたら、
そのあとは、
ふつーにまた関わってもいいかとは思います。

ただ、それができるかどうか、というか…
自我消滅後の人生がどうなるか、というのは…
その人の持ってきたシナリオ次第かなという気がしなくもないです。

できないひとはできないと思います。
できるひとはできます。

そしておそらく、本人(?)が不服と思うことはないので、
問題もないと思います(笑)。

…………わたしの場合は、
過渡期の5~6年くらいが終わったら、割とまあ普通に戻りました。
趣味と中味はともかく(笑)、生活も9割が完全に一般人です。
ちゃんと『深夜のダメ恋図鑑』という漫画教えてもらって吹いたし

          ※参考♡: 【ワロタ】深夜のダメ恋図鑑の名言集めたらヒドすぎたwww | ドル漫
                痛快!ダメ男をたたっ切る『深夜のダメ恋図鑑』【漫画】



まあ、そんなわけで(?)、
生活手段(物質的な金銭面)は、流石になんとかなると思います。

というか、なんとかするはずです、あなたが本当に本気であるならば。


わたし自身、ヨガ街道に復帰するにあたって、
その軍資金のために逆に仕事増やしたけど、特に問題なかったです。

ただし、仕事にまつわる何かに対して
プライド化や執着または自己同一化を(無自覚に)している場合は、

残念ながら、その業務や仕事なんかは物理的にも奪われるかもしれません。

それいつ自覚するのん、それいつ捨てるのん、っていうツッコミ、
もとい恩寵の1つです。
わたしも結構ビシバシとやられました。



もうひとつ躊躇がおきるとしたら、
子供の立場としての家族関係+大人になってからの家族関係(+その手前の恋愛関係)
についてかなと思うんですが、
既にもう存在している場合、
それがどうなるかについては、正直、完全にケースバイケースだと思います。

あ、現時点で存在していない場合は、
それでも躊躇が起きるなら、本気じゃないということです。
そんな好環境を与えられておいて「何故やらないんだ?」という、
理解不能な話になってきます。(笑)


わたし自身、ヴィヴェーカーナンダが
「今生と来世以降のすべてを賭けて、ただそれだけを不撓不屈の情熱で求めろ!」
って励ましてくれてたので(笑)
(彼の講演集はめっちゃ名言多いんですよ)、

「日本でやれることはすべてやろう。
 それでも、あまりにも自分の前進がダメダメだったら、
 天涯孤独になった後にヒマラヤに行って先生を探そう。うん。
 (コミュニケーションは何語なんだろう…インド…?ヒンディー語…?)」

と思って、始めましたし。

…いや、『あるヨギの自叙伝』も読んでたから、聖者さん達って
ヒマラヤにいらっしゃるのかなと思ってたんですよ(ターゲットロックオン、爆笑)



……あ、友人関係は、
ほんとに友情があったら、
真我実現するまではちょっと会えない遊べない(笑)、とかその程度では
縁は切れたりしないと思うので大丈夫かなと。
別に事情説明しなくても「しばらく忙しいんだ」とかで(笑)大丈夫かなと。



  「ただ真理
(真我=アートマンだけを求めろ」が、必須原則です。

  そして、これは内心の問題です。

  物質次元がどうなるかは、完全にケースバイケースです。

  しかし、繰り返しになりますが、
  これもやはりなんとかなるか、自分でなんとかするはずです。

  あなたが本当に本気であるならば。



みずからの消滅に協力する好意的な自我(笑)の場合はとくに、
この程度の障害では絶対に諦めないんで、必ずクリアできると思います。





不言でも有言でも構いません。
でも、本気でやると決めたのであれば、実行という種をまきましょう。

種を蒔かずに収穫を夢見たところで、畑に生えるのは雑草だけです。
行動の積み重ねが一番大切です。

そして、こつこつと、実践し続けましょう。

うっかり道端に種を落としたら、鳥に食べられる前に慌てて拾い直し、
石だらけの土の少ないところでうっかり芽生えてしまったら
日が昇って根が枯れる前にちゃんと保護して水をやって良い場所に植え替えをし、
種が落ちたところに茨があったならその茨を全部刈ってやり、

あるいは
先に良い土地をつくっておいて、そこに種を蒔けば、

発芽して、育って、実を結んで、30倍、60倍、100倍になって
あなたは必ずその結果を収穫します。


でも、わざわざ毒麦の種を選んでまくのはやめておいたほうがいいと、
そして毒麦撒き機が現れたら、可能な限りそっと離れた方がいいと、
わたしは思います。(笑)


  


  

知識の道こと「ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」はゴールへの最短コースと
言われるだけあって、
先生方も、あの手この手で外界への関心を捨てさせて、
内面に注意を向けさせようと努力なさっているわけですが、

その割にあんまり忠告の方は出回ってないっていうか(笑)
あんまりたぶん有名じゃないんだろうと思うんですけども、

最短距離だから楽なのかなと誤解してこの方法で始めた後で
楽じゃなかったからといってクレームがでると、
こちらとしても

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 (゜_゜) 」

と無言になるしかないので、
責任をもって、先に、伝統的な忠告をご紹介しておきます。(笑)

 

 

ジュニヤーナ・ヨガを始めるなら、
その前に十分な精神的準備が必要である。

 

このコースを取るなら、人は
非常に健全で、そして純粋な心を持たなければならない。

「自己」の神性は、非常に精妙で鋭い知性の助けによってのみ、
悟ることができるのだ。(カタ・ウパニシャッド

心が完全に浄化されたとき、
初めて、知性はその様な状態に達することができるのだ。

 

四つの必須の条件を十分に身につけている人だけが、
このヨガを実践する資格がある、といわれているのはそれだからである。

 

彼はまず、
① 実在(神)非実在(宇宙)とを識別しなければならない。
  現世または未来世の何ものにも あこがれてはならない。

 また
② 彼の感覚と心は常に完全に彼の支配下になければならないし、
  彼はいかなる環境にも安住できなければならない。
  その行くてに現れるであろう一切の苦難を
  うらみや不足の心なしに耐え忍ばなければならない。


③ 自分自ら、および リシ(真我実現した聖者)たちの発見した真理に、
  熱烈な信仰をもつべきである。
  心を統一しなければならない。

そして、
これらすべてにもまして、
④ 解脱への燃えるような願望と、
  目的達成のためのひたむきな献身とが必要である。
 

そのような精神的な準備なしには、瞑想は不可能である。

 

「自己」の本性について熟考することによって
「それ」に関する漠然とした知的概念を得る程度のことはできるであろう。

しかしそれ以上の進展は不可能だ。

そして、「自己」の自覚に比べれば、この概念などはちりのようなものである。

 

※引用元: 『ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書』 

 

  

必ず、先に、この精神的準備を万全にしておいてください。

半袖半ズボンにサンダルに小銭だけで雪山登山に挑むかのような愚挙には
出ないようにしましょう。

 

 

ラマクリ師匠はこのあたり徹底的に教えてらしたらしく、

※参考:ラーマクリシュナ - Wikipedia  

ヴィヴェーカーナンダも4つのヨーガの本全部でこの手の忠告はしてたので
知っていた(というか、初期の頃はこういう内容しか理解不可能だった、笑)し、

「おお、そういうものなんだな~(なんて格好良いんだ…!)

で終わったんですけども、

 

 

 

・・・・・・え、これ、カッコイイよね?

 

 

 

うん、何度読み直しても格好良いわこの文章。

カッコイイ。

 

 

そしてこの「精神的準備」の後に、
トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1) でも一度ご紹介した

  1. シュラヴァナ聴聞
  2. マナナ(熟考)
  3. ニディディヤーサナ(瞑想)

という流れになります。

 

今回マハルシの説明もご紹介できましたが、1で先生から与えられる定義は、

 

Which is real exist always.
つねに存在するものが実在である

 

とかになります。

 

…まあ、この定義から、

「起きてるときの状況ってさ、あなたが熟睡中にはごっそりなくなってるよね?
 だからリアルじゃないよね?」

って突っ込ませるのは、流石のインド哲学クオリティ。(笑)

 

 

 

終わってみたら、
何が障害だったのかなんてめっちゃくちゃ簡単なんだけど、

渦中にいるときって、全然わっかんなかったですわ…。

難しかった。

ついでに、最期の最期にやってくるテストが一番難しかった。(事実)

 

まーでも、

アートマンって、
ただアートマン自身だけを求めてくる自我(エゴ)には、案外甘いので(笑)、

あなたが本当に本気であるならば、
そして本当に本気で無我夢中に求めているならば、

絶対に、大丈夫です。

 

 

……ちなみに、わたしはですね、約11年前~の時点では、
この「ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」はですね、

 

カタカナサンスクリット語が出てくるとその都度頭フリーズして読書中断とか、

日本語を読んでるはずなんだけど何いってるのか全くわからないんだけど
何だこれ挫折(あるいはツッコミの山登山)とかで、

 

 

1のシュラヴァナで敗退してます。

 

 

もしくは、準備段階の最初の①「実在と非実在の識別」のとこで敗退してます。

 

だって今生は日本文化圏で育ったんやもん。

全然馴染みないねんもん、わからんもんはわからんねんて。

しゃーないて。(笑)

 

 

いや、これでもね、
マハルシが教えてらした、「私は誰か?」と問うやり方を、
頑張ってやってたんですよ。(笑)

他のことも(やり方を理解できたものから)色々やってたんですけど、
これもやったんです。

本買った時期もはやかったから、やった時期もはやいはず。
たぶん2009年春にはやり始めてたと思うんです。



前述の通り、
今生のわたしをヨガ街道に復帰させたのはヴィヴェーカーナンダなんですが、

それゆえ(?)
わたしがラマナ・マハルシを知ったのは、
ポール・ブラントン(ラマナ・マハルシの弟子になった方の1人)著
『秘められたインド』という本を読んだからなんですね。
 

忘れもしない2008年の夏、

「ヨガはからだにいいよ~」と言われて
「そうなんや、じゃあ1回試しにやってみるわ~」と
このライトなノリで(笑)たまたま見つけていったヨガ教室で、

「思想とか人物(聖者)とかに興味があるなら、結構本も色々あるよ~」

とやっぱりたまたま教えてもらえたので、面白そうだと思った本から読んでみたら、

 

ヴィヴェーカーナンダ(の講演録の内容)の格好良さ(素晴らしさ)に転がり落ち、

 

キャリーケース抱えて日本ヴェーダーンタ協会(発行元)に行って、
当時出てた本全部買ったんですよ。(笑)

ちなみに帰りの電車で『わが師』とか読んで大号泣してたんですよ。(笑)

 

・・・・・・どうかんがえても前提気質これバクタよな。ギャーニちゃうよな。(笑)

 

そしてその時買った本の山の中に、『秘められたインド』があったんです。

『ラーマクリシュナの福音』または『不滅の言葉・コタムリト』を著した
マヘンドラナート・グプターさん(M)が、
ポール・ブラントンさんにちゃっかり会ってまして、
その二人の対話エピソードがとてもよかったのです。

※参考:マヘーンドラナート・グプター - Wikipedia 

 


あなたをインドに来るようにうながし、
そして我が国のサードゥたちに会うように導いているのは、
もっと高い、ある力です。

その背後には一つの真の目的があります。

将来が必ず、それを明らかにするでしょう。
忍耐強く、それをお待ちなさい。

※引用元:『秘められたインド―賢者たちとの出会いの記録』 

 

と、Mがポール・ブラントンさんに言うんですが、
その将来に現れたのがラマナ・マハルシ。

おお、じゃあ、この方の本とかはあるのかな?と思って探したわけですよ。

で、その先生が「私は誰か」と問えって言ってるから、やったわけですよ。

 

が、
完全敗退しました。(笑)

いやあもう、ほんっとに全然駄目だった。(笑)

 


「 ・・・・・・・・・・・・ん?(アレ(゚Д゚ )? ) 」

 


こんな感じで全戦全敗。(笑)

 

 

To each person that way is the best which appears easiest or appeals most.
各人がそれぞれ最も魅力を感じ、最も易しいとおもうものが最上の方法である。

All the ways are equally good, as they lead to the same goal,
which is the merging of the ego in the Self.
すべての道が、真我のなかに自我を融合させるという同じ目的地へと続いている。

 

とおっしゃったマハルシが正しかったです(感謝)。

  


  

最後にもうひとつ補足します。

 

真我(アートマン)永久化を実現したに、

アートマンブラフマンな合一時間が増えていく」か、
「あなたの"体という道具"の掃除=レベルアップが進む」か、
または他の何かの条件を満たすと

 

世界を外側には見なくなります。

世界があなたの内側に見えるようになります。

 

わたし、ニルグナ・ブラフマンがどんどん大きくなって
マーヤーを飲み込むとことか、肉眼の視覚情報として見たんですよ。(笑)

起きてるとき(ジャーグラト)に。

 

それ以来、世界も内側に見えます。

 

精神的なことは内面とかよく言いますが、外界もなぜか内側になるんですよね。

まあ、そんなに問題なく生活できてるんですけど。

何事も慣れですから。

 

あと、知覚情報も変わりますね。

ほんっとに変わります。

変わり続けてます。

一応、身体(物質+非物質)の性能とか効率とかは
上がっていくようにはなってますが、
あまりにも変わるんで、
全部記憶しておこうという初期の頃の努力はやめました(笑)。

最近は、
「こういう方向のスキル磨きたいな~」と意図的に探すようになってます。

成長!(笑)

 

確か昔は「空気が自己主張をしてくるみたいだ」とか言ってたなあ。


今は……
……
……(ニルグナ)ブラフマンはそらサット・チット・アーナンダなんだけど…

 

……少なくとも2019年11月時点でのわたしの感想としては、

このリーラこと神の戯れ、マーヤーの@物質次元の主題は、
美しき残酷な世界に違いない


ですかね…。

(以下理由例)
🌎

🗾

 

巨人が突然現れなくても、十分、美しき残酷な世界だと思います。

 

 

……『ギャーナ・ヨーガ』の本の中でヴィヴェーカーナンダも言ってて、

というかそもそもわたしは
ヴィヴェーカーナンダのこの「マーヤー」に関する講話をこの本で読んだが故に
「なにこのひと、天才…!?」と感動してヨガ街道に転がり落ちた程で(笑)、

 

ラマクリ師匠ことラーマクリシュナも(同趣旨のことを)言ってるし、
ラマナ・マハルシもやはりおっしゃってるんですが、

 

この、美しき残酷な世界に対する

 

 

"Why did the Self manifest as this miserable world?"
「何故、真我は、この悲惨な世界として現れるのでしょうか」

 

 

という生徒の問いへの、
ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ的、模範解答(結構有名)は、存在します。

 

これが完答です。

 

 

 

"In order that you might seek it."
「あなたに、真我を、探させるためである」

 

 

 

 


 

 

 

 

うん。

そうやねん。

これな、自我への模範解答やねん。

 

 

 ・・・・・・そうやねんけどな?

 

 

今回、『先に真我になってから、世界に関わろう』路線を推奨した最大の理由は
ここなんですが、 

いや、あのね、

一回、ほんまに、ガチで、

このアートマンの本性、ブラフマンの本性、あなたの真の姿の
「サット・チット・アーナンダ」の
「アーナンダ」のとこをほんまに思いっきり実感してほしい。

 

そして、
この🌎の物質次元のありのままあるがままそのままを、
「あなた自身の人生」や「あなたが関わる主な場とその登場人物他」という
今の限界を超えて、
最大出力・最大範囲・最大詳細でもって、観察してみてほしい。

 

どこをどう間違えたら
「アレ」が「こんな酷い惨状」に化けたん・・・?

 

って、絶対 突っ込みいれたくなるから。

 

 

非物質次元への察知スキルがある方、
是非、
一番ニルグナ・ブラフマンに近いエリア(次元)から、
この物質次元までずっと察知して見てください。

 

そして徐々に変わっていくあのグラデーションの途中で
なんか変なことになったその後の体感を描写してやってください。

 

 

え、なにこの大気汚染!めっちゃ汚なっ!!

なにこれPM2.5?

苦しい!痛い!!重い!!!なんやこれは!!!!

えっなんでこれ絶賛無視っていうか放置中なん、
おかしいやろ!!!!!

ちょっと掃除機と空気清浄機はどこにあるん!!!!!!

 

 

って、絶対 突っ込みいれたくなるから。

 

 

 

インド哲学的には、今は一番酷い時代であるカリ・ユガ(または、
カリ・ユガをちょっと出たところ)だからこの惨状だと
説明されていたりするんですが、

(サト・ユガという時代になると、天国クラスのまともさ、もとい(笑)、
 やっと幸せな時代に戻るので、今はそこに向かっている上昇期といわれてます)

でもね、

わたしね、

じぶんが幸せなのに、わざわざ悪夢を作って苦しんで悦ぶようなドM気質、
一切持ち合わせてないんですよ。

何故カリ・ユガとか作ってるの?

サト・ユガから更にもっと幸せなサトサト・ユガへ!とかじゃダメだったの?

 

ええやん、最初から最後まで、幸せな夢で。

登場する人、登場する存在、全員が、誰一人何一つ例外なく、幸せな夢でええやん。

幸せがデフォルトで、もっとどんどん幸せになっていく夢でええやん。

何故、誰が、わざわざ、こんな悪夢つくったの?

 

そいつ馬鹿なの?

 

って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

(主観的な)幸せと不幸があったら、幸せなほうがよいのって、普通やからね?

なんで、わざわざ、本当の自分が、本性の幸せを捨てて、不幸にならなあかんの?

 

アートマンて馬鹿なの?
それとも他の何かが馬鹿なの?

 

って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

仮にもこの全宇宙全世界の設計者こと
サグナ・ブラフマンってさ、
欠点無縁の凄まじき全知全能やねんで?

悪夢しか作れない程、無能なわけがないやろ?

じゃあ一体誰(何)なん?
この夢を悪夢にした馬鹿。


って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

関西人の本性(笑)、怒涛のツッコミはさておき、

「どうせなら、わたしは、悪夢ではなく、幸せな夢を見たい」
「っていうか、悪夢なんかもう見たくない」
「可能な限り、この悪夢を幸せな夢に変えてみたい」
「っていうか、悪夢なんかもう見たくない」

というのがわたしの主張の真意です。

(…あれ、4行で終わった…)

 

せめて、人為で解決できる問題については、
とくに過去から現在の流れの中で人類が起こしてきた問題の解決は、
人類(役になってしまった存在達、笑)が、ちゃんと挑戦せなあかんと
思っています。

 

 

そんなわけで
この長文記事をここまで読んでくださったみなさん(おつかれさまでした!)
(今回3万8000字オーバーして反省したので、次回からはもう少し短くします!)

もし、興味があったら、
是非、
ほんっとに至福な自分の本性に、戻ってください。

 

そして、
一緒に、声高に、

 

なんやねんこの悪夢!これはよ正常に戻さなあかんで!

 

と、突っ込んでください。

 

 

 

個人的には、
可能であるなら、
今生の肉体を維持している間に、

マズローの欲求5段階説でいうなら、せめて下2つ
(生理的欲求 Physiological needs と安全の欲求 Safety needs)までは、
地球人類全員に行き渡ってほしいなあと願っています。 

※参考:自己実現理論 - Wikipedia  

 

 

 

Suppose there is some wound inside the human body.
人間の身体のなかに何かの傷があると考えてみなさい。

If you neglect it,
on the assumption that it is only a small part of the body,
it causes pain to the whole body.
もしあなたが、
それは身体のなかの小さな一部分にすぎないとして無視すれば、
痛みが全身に広がる原因となる。

If it is not cured by ordinary treatment,
the doctor must come,
cut off the affected portion with a knife and remove the impurities.
If the diseased part is not cut off it will fester.
もし通常の治療がなされなければ、
医師が来て、悪化した傷口をナイフで切り開き、
化膿した部分を取り去らなければならないだろう。
もし切り取らなければ、それは悪化するばかりだろう。

If you do not bandage it after operating, pus will form.
そしてもし、手術後に包帯をしなければ膿がでるだろう。

 

It is the same thing with regard to conduct.
Bad habits and bad conduct are like a wound in the body.
それと同じことが行為についても言えるのである。
悪い習慣と悪い行為は身体のなかの傷と同じである。

Every disease must be given appropriate treatment.
どの病気にも適切な治療法が与えられなければならない。

 

 

 


 

今回のメイン引用元の書籍はこちらです。

 

 

Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Kindle版)
英語引用元

Be As You Are:
The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Edited by David Godman

 

 

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
日本語引用元

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド・ゴッドマン
福間巌訳

 

※参考:ラマナ・マハルシ - Wikipedia