Turiyatita

トゥリーヤーティータ:第4の彼方から、伝統的ヨーガをベースに近隣ジャンルにも出没。 あるヨギーニ/瞑想者のブログです。内発的動機付けという幸運があなたの前進を支えますように✨

クリシュナムルティ、「解放」、「星の教団解散宣言」、睡眠と瞑想(補足:バクティ・ヨーガ)

 

クリシュナムルティ、「解放」、「星の教団解散宣言」、睡眠と瞑想(補足:バクティ・ヨーガ)

  

クリシュナムルティ
解放、
星の教団解散宣言、
睡眠と瞑想
(補足:バクティ・ヨーガ)

 

…今日は新月🌑ではなく満月🌕なのですが、あの…はい、更新します。(笑)

 

いえ、先日、
クリシュナムルティは、今回のブログで取り上げるチャンスないかもなあ…」と
別の本を読みながらふと思ったところ、

直後からものすごい圧力 勢いで読め読め読め読め読め読め読め読め誘惑が
やってきたので、

はい、あの、ちゃんと指示箇所は先に読ませていただきましたので、
彼についても記事を書かせていただきたいと思います(誰)。

 

…今後も満月に記事を書くかどうかは、わたしにもわかりません。(小声)

師走に入って先生方も走っておられるのかもしれませんが、人間も走ってますから!(爆)
もうちょっと暇があるときにいってください!(爆)
 

  

Jiddu Krishnamurti
ジッドゥ・クリシュナムルティ

 

※参考:ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia 

クリシュナムルティのウィキペディアのページも、
数年前にわたしが読んだ時と比べるとめっちゃ詳しくなってる気がします(衝撃)。

 

 

私がクリシュナムルティに対して絶対に特筆したい点は、
13才のときに、既に『大師のみ足のもとに』という本を書いていることです。

 

この本は、大人になってからの彼の指導内容とは全く違いますが、
この内容が既に子供の時期に書けていた、という事実は非常に重要です。

 

彼は13才でこの本を書いています。

  

 13才です。

 

 

 日本人なら中学1~2年生です。

 

  

かの中2病が現れて(?)、将来「黒歴史やらかした☆彡」とネタになるらしい、
中学1~2年生の時期の少年が書いた本の内容が、以下なわけです。

 

  

この本に書いてあることは私の言葉ではありません。
私を教えてくださった大師のお言葉です。
大師がいらっしゃらなければ私は何もすることが出来ませんでした。
けれども大師のお助けで私は道に足をおろしました。

 

あなたもまた、同じ道に入ることを願っていらっしゃいますね。
大師が私に話されたお言葉に もしあなたが従われるならば、
そのお言葉はあなたも助けて下さるでしょう。

そのお言葉は真実で美しいなというだけでは充分ではありません。
成功しようと思う人は言われた通り正確に実行しなければなりません。

 

何か食べ物を見て、それはおいしい食べ物なのだというだけでは、
飢えている人を満足させる事は出来ないでしょう。
その人は手をのばして食べねばなりません。

同じように、大師のお言葉を聞くだけでは充分ではないのです。
あなたは大師の言われたことを一語一語注意して、
どんな一寸した助言にも従って実行しなければなりません。

 

もし助言に気が付かず、又一つの言葉でも聞き落とすと、
それは永遠に失われてしまいます。
大師は二度はおっしゃいませんので。

 

 

この道を歩むための四つの条件は、

  • 識別
  • 無欲
  • 善行

この四つのことについてそれぞれ、
大師が私に言われたことを、あなたにお話しいたしましょう。

 

 

 

どうやったらこんな13才が生まれるんだ。

中学1~2年の頃なんて、
「友達に音楽をカセット(笑)にダビングしてもらったり、
幽遊白書スラムダンクの漫画を貸してもらったりしたなー。
毎週月曜日は週刊ジャンプの発売日で、帰りに男子が以下略」
とかいう一般人生活しか思い出せないんですけどわたし!!!

 

 

中学で習いました? この4つの内容。

周囲の大人の誰かが教えてくれました? この4つの内容。

13才のときこんな謙虚な姿勢でこんな核心をついたセリフ、言えました?

 

この続きも神懸って素晴らしいので、
クリシュナムルティがお好きな方や彼の指導法で進みたい方、
ほんっとに、是非とも、読んでください。

ジュニャーナ(ギャーナ)、ラージャ、バクティ、カルマの
どのヨーガにおいても、基本準備として指導される内容が
平易な言葉でとてもわかりやすく書いてあります。

 

この時点で、彼はまだたったの13才です。

つまり、彼には、13才から既にこの4つが土台にあるわけです。

 

 

この、基礎中の基礎をきっちりこなしてきた人(達)が、
こつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつ
(過去生含めて)してきたことの結果として、

「彼らは」今はもう普通にこなすことができているような、

実質は破格の応用内容を、

「こうすれば(簡単に)できるよ~」と、いくら「彼らが」主張したからといって、

 

基礎準備ができていない状態でできるわけがないんだよ、

 

という事実を、人類(笑)はまず直視すべきです。

 

 

 

  

できるわけがないんだよ。(涙)

(大切なとこなので2回書く。)

 

 

 

 

実際、わたし、
身の程知らず分不相応なお願いというか、
自分の側の準備が全くできてない状態で自分のスピードアップサポート依頼(?)を
先生にした日には、

 

「してもいいけど、君の肉体焼け落ちるよ?」
(=『今のおまえにはまだ無理。先にもっと身心を綺麗にしてこい』の意)

 

とふっつーにストップがかかりますから。

うちの先生、こういう、非物質な身体とか肉体の状態が全部(視覚情報?として)見えるらしく、
現状に照らし合わせて真剣無謀なときは、ガチで制止がきます。笑

 

 

体に致命傷クラスの大ダメージを与えてまで結果を急ぐ必要はない、
と、
わたしは思っているので、

少しずつでも日々の掃除をした結果として、
将来、自然な形で、求めたものがやってくれば、わたしはそれで十分です。

急がば回れ」っていうすばらしい諺が、日本にはある。

 

 

......あ、そういえば、
同じ理由で、

クンダリニーを無理矢理上昇させようとしたり
チャクラを無理矢理こじ開けようとしたりするのも非常に危険です。

だからわたしはこっち系の方法はまったく選んでないです。

 

避けられる危険は極力回避してもいいとわたしは思います

「君子危うきに近寄らず」っていうすばらしい諺も、日本にはある。

 

 

そもそも、ナーディ(肉体でいう血管やリンパの、非物質の身体用のもの)
(日本人になじみがある例だと、ツボとか経絡とかかな...)は、

たぶん結構有名な、背骨に沿ってあるといわれる
クンダリニー上昇に絡むといわれる)イダー・ピンガラー・スシュムナーの3つ
だけではなく、網の目状に身体中に張り巡らされています。

 

 

※参考:肉体とチャクラとナーディの参考イメージ
肉体とチャクラとナーディの参考イメージ
( 引用元:『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術―』より )

 

体の中央に縦に並ぶ ○ が、チャクラのイメージです。
体の中の白い線、身体の外の白い細かい網の目状の線が、ナーディのイメージです。

  

この細かいナーディまで、全部が掃除範囲です。

 

この網の目までも
一気に掃除してくださいとか急速に掃除してくださいとかお願いしたら、
そら、
ゴミが削げ落ちるときの抵抗や摩擦で肉体に大ダメージがくるからやめておけ、
っていうのは、非常に親切な忠告です。

たとえるなら、高性能な精密機械に高圧大電流を流して、
その複雑で繊細な回路を一発で破壊しちゃうようなものだからです。

 

背骨あたりに沿ってある7つのチャクラや、
イダー・ピンガラー・スシュムナーの3つのナーディ以外の部分も

まあたとえばですが、何かゴミがくっついて流れにくくなっていたとしたら、
そのゴミを取り除いてスムーズに流れるようにする必要があります。

 

全部です。

 

このナーディは、人間の身体(非物質バージョン)に
72,000本(往復で?144,400本)存在していると言われています。

 

わたし、一応、
自分の体内の体感を探りながら大体100本くらいまでは数えたんですが、

 

そのあたりではたと我に返りまして、

 

「うん、まあ、結局、全部掃除すればいいんだよ。掃除すれば」
「大事なのは、正確な本数じゃなくて掃除だ」

 

という方向性にシフトしました。(笑)

 

そんなわけで、本数はともかく(笑)、体感としては、
それがあるのはわかる(ようになる)かと思いますが、

合計72,000本(144,400本)だそうですよみなさん。

 

長期戦になるのが当たり前という話です。

 

...ちなみに、画像のこの毛細血管みたいなものは、人体を覆う青色の卵部分の外の
黒背景にも広がっているように、大宇宙的には世界中に張り巡らされてます。

アートマンブラフマンな梵我一如になってしまったら、幸か不幸か世界の分まで気になっちゃいます🌟)

 

 

 

このナーディの掃除方法はいくつもありますが、

13才のクリシュナムルティ少年の言う、

  • 識別
  • 無欲
  • 善行

も、まさにその方法の1つです。

『ヨーガ・スートラ』には、
ヤマとニヤマ、慈悲喜捨や5つの煩悩の撃退方法なんかが載っています。

 

 

基礎準備ができてから、「ギャーナ・ヨーガ」に取り組みなさい、
と言われるのは、何よりもまず一番に、本人の安全の為です。

 

 

50m走っただけで息があがって翌日筋肉痛になるような人間に、
いきなりフルマラソンの完走なんて絶対にできないのと、同じです。

 

肉体が焼け死んでいいから急ぎたいのだと豪語するなら、
私に止める権利はありませんが、
私は絶対にやりませんし、絶対に薦めません。

「君子危うきに近寄らず」っていうすばらしい諺が、日本にはある。

(大事なところなので2度書く。)

 


 

そして今回、
改めてウィキペディアクリシュナムルティの人生史(?)を読んだ限りにおいて、
もう一つ興味深かったのは、
弟の死と、それにまつわるエピソードと、彼のその後の変化です。

 

これは、「四苦」(生老病死)と「愛別離苦」と「求不得苦」カテゴリですね。

 

 

これは私個人の感想ですが、

この一件で、
彼は、
マスター(大師)方と、弟への「執着」を、ぶった切ったと思います。

 

彼の「最期の障害」は、先生方と弟への(自我としての)愛だったと思います。

 

アートマン」の永久化のためには、
世界の中の対象「すべて」に対する、「すべて」の「接着」を剥がす必要がある、

そこに例外は絶対にない、

と、私が言う所以です。

 

 

私も、マスター方・先生方への思慕は、一度きっちりと削ぎ落としたので、
これについては間違いないと断言します。

これは、必ず、デリート(削除)されます。

 

 

ただ、わたしの場合は、
それがわたしの最期の障害ではなかったので、

こっそり抜き取ってくださったというか、
「トゥリーヤ・サマーディ」インによるサンスカーラ削除の範疇に入ったというか、
真我(アートマン)の恩寵でしれっと消えたというか、

ふと気付けばごそっとなくなっていたんですけど。(笑)

 

だから、わたしはこの課題はまったく苦戦しませんでした。(えへ)

でも、完膚なきまでに、(一度は)完全に無くなりました。

...ちなみにこれ、「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」との梵我一如に移行してきたら、
アップグレードして戻ってきます...

 

 

あと、ちょっと思い出したんですが、
確かわたし、自分の「ニルグナ・ブラフマン」との梵我一如の最盛期(笑)には、

 

 『人間だろうが聖者だろうがアセンデッドマスターだろうがなんだろうが、
 全部そっち側(世界の中)でしょ、
 ここ(ニルグナ・ブラフマンの中)には いないじゃない!

 全部幻想(マーヤー)じゃない!』

 

 ってぎゃーぎゃー暴れてましたんで(笑)、
この意味においても、気持ちはちょっとわかります。(笑)

 

だって、自我(エゴ)が消滅したら、全宇宙の外に出るんだもん。

「プルシャ」として「プラクリティ」を見てる間は、仕方ない。(笑)

 


 


日本の仏教にも、「師に会えば師を殺せ」みたいなやつありましたよね?

…なんだっけ…
あ、ええと、臨済義玄さんの「臨済録」という本に載っているそうです。

臨済さんというと、禅宗臨済宗をつくった方ですね。

 

 仏に逢うては仏を殺し、
 祖に逢うては祖を殺し、
 羅漢に逢うては羅漢を殺し、
 父母に逢うては父母を殺し、
 親眷に逢うては親眷を殺し、
 始めて解脱を得ん

 (臨済義玄臨済録」より) 

 

…うっわ、めっちゃかっこいいでコレ……日本文化万歳(笑)

  

もとい。

勿論ですが、物質次元でほんとに肉体を殺す必要は、一切ないです。(真顔)
「執着」の話です。(真顔)

 

しかし、まさにコレです。

 

外側の師を、
肉体や心、性格を持った人間として見ている場合、
「ニルグナ・ブラフマン」との梵我一如の為には、障害でしかありません。

仏、祖、阿羅漢、父母、家族(親眷)等々への「全執着」は、
必ず、最期、邪魔になります。

※参考:阿羅漢 - Wikipedia

 

 

せっかくなので「トゥリーヤ」から切り込んでおきましょう。

知的理解はこの2つですみます。

 

  1.  あなたが起きてる間しか会えないですよね、その人には。
     熟睡中会ってないですよね。
     ってことは、その人は、あなたの真我(アートマン)じゃないんですよ。

  2.  だから、その人に執着するな。
     心に、その人を追い求め続けることをゆるすな。

 

この知的理解を情緒/感情のレベルに持ち込んで、
その対象に「執着すること」「執心すること」をやめるのが、
自我(エゴ)の重要なスピリチュアルプラクティス(サーダナ)の一つです。

 


 

もう少し、この障害内容例を書いておきます。

 


 

師や家族に限らず、
物質次元に存在するあらゆる場所、物、人、生物等への
好意や愛はすべて障害であるように、
その逆もすべてが障害です。

 

あなたが、
(物質次元に存在している)誰かや何かを嫌ったり憎んだりしている場合、
嫌悪や憎しみという感情が、その対象に、「自我」を「接着」させます。

 

 

......でも、わたしは、

右の頬をぶたれても、左の頬は差し出さないですし、
そもそもなぜ右の頬をおまえに殴られなあかんねん、
おまえこそ非暴力を学べや、
と思う派なので、(笑)

わたしの「憎む対象への執着を外せ」という言葉は、
たとえば、
「今、自分の権利を侵害してくる他人の、不当な要求を耐え忍べ」という意味では
まったくありません。

 

日本人て生真面目な気質のかたが多いのか、
根が優しくて素直なかたほど、
「非暴力であれ」「忍耐しろ」と習った(?)ばかりに、
どう考えても相手が舐めてかかって強奪しにきてるぞというときでさえ
「相手を愛さねばならぬ」
とかやっちゃうパターンをちょくちょく見たのですが、

 

そんなことはしなくていいです。

 

んーと、
たとえば、

いじめられている生徒には「いじめを耐え忍びなさい」といい、
見て見ぬふりをするクラスメートには「悪への無関心が立派だ」といい、
いじめている生徒には「あなたの悪を許す」という、

 

そんな腐れ外道な教えに従う必要はないです。

 

これで、いじめられた生徒が自死でもしようものなら、
間違いなく「本人が弱かったのだ」とかほざきだしますからね?

 

 

こういうことについて、ラマクリ師匠は、


 全てが神であるということが事実だからといって、
 たとえ空腹の虎も神であるからといって、
 『飢えた虎が現れたら、神だと思って抱きしめろ』なんてことは全く言ってない。
 『虎が来たぞ!逃げろ』と注意してくれる人だって、神様だ。
 (虎だって神だから大丈夫だ!)と思ったばかりにきっちり食われた後で(笑)
 「どうして助けてくださらなかったんですか」と神に文句を言うつもりか?
 なぜ忠告をくれた神様の言うことには従わないんだ?


 毒蛇が威嚇するように、唸り声をあげ攻撃する力があることを示して、
 敵を追い払え。

 だがその毒で相手(敵)を噛むな。


みたいに喩えて教えてたんですよ。ⓒラーマクリシュナの福音

こういうとこは、さりげにめっちゃ実用的(?)なこと教えてたんですよ。(笑)

※参考:ラーマクリシュナ - Wikipedia 

 

 

「弱いから戦えない」のと、「強いから戦わない」のは、全く違います。

そして、その間には、「強くなるために戦う」という過程がおきるでしょう。

 

机上の空論が現場では役に立たないことなんて、いっぱいおこります。

 

目の前の現実を見て、
臨機応変に、
やるべきことをみてやるべきと思ったように淡々と対処しながら、

内心でガンガン無執着になっていく、というのが理想かなと思います。

 

 

そしてもうひとつ補足なんですが、
何かや誰かに対する好意や愛については、

それがあなたの持っているシナリオで、それがあなたの役(or役目)な場合、
アートマンが恒久化した後に、
その量も質もはるかに増幅され進化した状態で復活してきますので(笑)、

手放すのが勿体無いとかそういう動機では悩まないでください。

 

捨てたことを後悔することはないと断言します。

雲泥の差の新バージョンを是非楽しんでください!

 


 

物質次元の物や人やシステムなどでなくても、

たとえば心の中に、
記憶の中にある過去への後悔があるなら、
未来への不安や心配があるなら、
何かに対して恐怖を持っているならなら、
そして未来への何らかの夢や希望の計画を持っているなら、

後悔、不安、心配、恐怖というその感情が、
夢や希望に対するいうわくわくしたその感情が、

「自我」を、その対象へと、「接着」させます。

 

その接着を、剥がす必要があります。

あなたがこの道に対して本気であればあるほど、そして前進すればするほど、
あなたの意志と行動によって、
それらに対する興味を失わせることは容易になっていきます。

 

 

......この、
いわゆるネガティヴな感情についてですが、

その内容にもよりますし、
その感情が生まれた理由や原因にもよりますが、

自分で解決しようと決めて、
具体的に解決策を考えはじめて、
自分で解決に向かって行動しはじめたら、
あっさり消えることも結構あります。

 

少なくとも、わたしはそのやり方でかなりのものを消失させてきました。

「人事を尽くして天命を待つ」感じかなと。

 

 

 

で(笑)、
未来への夢や希望については、

それがあなたの持っているシナリオで、それがあなたの役(or役目)な場合、
アートマンが恒久化した後に、
効率や性能やスケールがはるかに上がった状態で復活してきますので(笑)、

そこは全く心配しないでください。(笑)

 

是非、その新たなグレードアップバージョンを楽しんでください!

 


 

あなたが、
あなた自身の何らかの信念や考え方を好むとき、あるいは嫌うとき、

あなたが、
何かの定義や判断やその結果に固執するとき、

あなたという「自我」は、
その信念、考え方、定義、判断というマインドの産物に、「接着」しています。

 

その接着が、アートマン永久化の障害です。

 

そのゴミを、ゴミ箱へ、捨てなさい。

 

 

 

えー、書くまでもなくもう予想していただけると思いますが、(笑)
ちゃんとアップグレードされて戻ってきますので、大丈夫です(笑)。

 


 

あなたの真我アートマンが、
「トゥリーヤ」、正確には「トゥリーヤーティータ」という本質を持つ、
というこの事実は、

自我(エゴ)の、全ての、狡猾な逃げ道を、叩き潰します。

 

「一時的なもの、来ては去っていくものは罠だ」とおっしゃったのは
プンジャジですが、
その台詞を完全な直球にして「トゥリーヤ」から切り込みましょう。

 

 

 

『熟睡時にも継続しない限り、それは全て罠である。』

 

 

 

この識別でもって、全世界全次元全宇宙の「中に」存在している対象への
すべての「接着」を捨てるのが、自我
(エゴ)の努力です。

 

これが、自我(エゴ)消滅のための、最強の識別方法、最大のコツになります。

 


 

まー、でも、
グレードアップして戻ってくるという視点から考えると、
「かわいい子には旅をさせよ」という気分で
そっと旅立ちを見送る、というような、もっと気楽な(?)感覚で、
それが可能になるのではないかと思います。

 

必ず戻ります。

保証できます。

 

なぜなら、わたし自身が生き証人だから。

 

 

ちなみに、
自我(エゴ)消滅後の、
うっかり泥沼にはまると大変な虚無エリア(?)から抜け出す方法とか、

「オンリーニルグナブラフマン」から
「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」に移行するための方法とかも、

ちゃんと入手済です。

 

だってわたし、そこで3年もドツボにはまって迷子ってたんだもん。

 

ぶっちゃけてもう二度とやりたくないくらいにはキツかったんで(爆)、
それについては、もうほんっとに、絶対、必ず、
症状説明(自分の状況と照らし合わせる必要が必ず出てくるから)
そこから抜け出すコツ
を(いずれ)このブログに書きます。


ですので、
是非とも、

「そういえばそんなこと言ってたよな、
そのコツがこのブログに載っていたよな…」という事実だけは
なんとか、ひとつの情報として、記憶の中に保存しておいてください

 

この文章を読んだ
今のあなたの感想や今の決意の体感のまま、
あなたが真我アートマンになることは

絶対にないです。

 

だからこそ、
自我が完全に死に絶えたときに、

「情報としてこのことを記憶の中に保存しておいてください」
と表現した意味が、必ずわかります。

 

できるかぎり、
極力安全かつ極力スムーズに、
そこを抜けて戻ってきてください。

 

 

この「美しき残酷な世界」を自らの内側に知覚する
サット・チット・アーナンダな「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」として、

「アーナンダ」の至福のエネルギーをこの物質次元まで下降させてきて定着させる、

 

これ「も」、瞑想担当班(?)の大切な仕事の1つです。

 

 

 

..このあとにしか共有できないものも、ほんっとに山とあるんです。

 

ほんとに山のようにあるんですよ。

 

個人的に、「次世代よ、あとはよろしく」というスタンスは
大人としてどうかなとおもっているということもあるのですが、

やはり、やれるところまではやりつくして、
次世代に自己ベストのものを手渡すのが、大人としての夢かなと!(笑)

 

そんなわけで!
興味があるかた!(笑)
ほんとに是非、一緒に現役世代として頑張りましょう!

目指せ生涯現役です(笑)。

 

 

 

補足:バクティ・ヨーガの場合

 

師への愛は「梵我一如」の障害であるという話を書きましたが、

バクティ・ヨーガ」の路線の場合は、
神(ブラフマン)と先生をひとつとみるならば、という条件で、
先生への愛をもってもいいというOKが、でるといえば、でます。

(…先生が、その生徒のための理想神を選ぶ、というやり方のほうが
 王道かもしませんが…)

 

ただ、なんていうか…
……この「先生を神(ブラフマン)と見る」というところがですね……。

 

…………。

 

……うん、あのですね、
本場インドの(?)、師を神と見た結果の最終段階サンプルは、こんな感じです。

少しご紹介しますので、肌に合いそうだなと思ったら、
バクティ・ヨーガ」のやり方を調べてみてください。

 

 

バクティ・ヨーガ

バクティ・ヨーガ

 

 

ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書

ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書

 

Kindle

 

 

バクティ・ヨーガ」という書籍の
著者というか、本に載っている内容の講演者でもありますので、
ヴィヴェーカーナンダの、師へのバクティをご紹介します。

※参考:ヴィヴェーカーナンダ - Wikipedia 

 

これは全部、ヴィヴェーカーナンダと、
同じくラーマクリシュナの生徒だった兄弟弟子達との会話です。 

 

 

見てくれ、兄弟、
私は彼(ラーマクリシュナ)の恩寵を何度も何度も感じてきた。

私は、
私の背後に立って
これらのことすべてをやるように仕向けておられるのは
彼なのだと言うことをひしひしと感じた。

 

ヒマラヤの小道で飢えて気を失ったとき。
身にまとうぼろ布もなかったとき。
無一文なのに西洋に行くことにしたとき――

このような場合のすべてに、私は彼のあふれる恩寵を感じた。

 

そしてまた、アメリカの大通りが、
このヴィヴェーカーナンダをひとめ見ようとつめかけた群衆で
あふれんばかりになったとき、

そんなときにも彼は私に恩寵を浴びせてくださった、

そして崇拝にも似た名誉と敬意の影響のもとにあっても
私に冷静さを保たせてくださった。

 

いたるところで私に成功がついてきたのは、彼のおかげなのだ。

 

 

 

私たちの師は、君が思うほど狭量ではない。

彼の生涯は実に偉大で、彼の思想は無限なのだ。

 

自分は彼を理解した、などと誰が言えるか?

彼は無比の存在だ。

有限なものは決して、無限をつつみこむことはできない、
そしていかなる点でも無限であられたのだよ。

 

彼は、決意なさっただけで、
またたく間に
百万人のヴィヴェーカーナンダをつくることがおできになる。

私がもう仕事をしないと言ったら、私は休ませてもらえると思うか?

 

彼は、この肉体と心を 彼のお道具として欲していらっしゃるのだ。
彼は これらをとおして仕事をなさりたいのだ。

それに服してしたがう以外に私に何ができよう?

 

 

 

君たちはみなバクタ(帰依の道を歩む者)だ。

君たちにこの仕事の何がわかる?

 

君たちは赤ん坊のようにむずかって泣くことしかできない。

君たちは、泣くことによって救われる、
最後の日には師が来て天国につれていって下さる、
それからそこで心ゆくまで楽しむことができる、と考えているのだろう!

そして、
知識を得るために聖典を学ぶ者、
人々に正しい道を教え、病み苦しむ人々を救うために働く者は
みな地獄に行く、
こんな仕事はみなマーヤーなのだから、と言うわけだ。

 

まったくすばらしい考えだ!

人類に善をなすことはよけいなお世話で、
こんなやっかいな活動によっては神に到達することはできない、とは。

 

これが君たちの見方なのだろう、そうではないか?

まるで神の悟りがとても簡単なことであるかのように――

 

君たちが神を呼ぶ、すると神がやってくる!

ただ神の画像を祭壇においてその前に花を2~3輪投げる人の前に
神が現れるのかね?

それを教えてくれ。

 

 

 

ああ、君たちが帰依と呼んでいるものは、
人間をよわよわしくするだけの感傷的なナンセンスだ。

誰がそんな帰依をしたがるものか。

人間を自己中心的にし、
自分自身の救済にこだわるあまり、
心が他に向かわないようにさせる、
そんな帰依を
私はいっさい信用しない。

 

私は
一人の真実の人間をそだてるためなら千回でも地獄に行ってやる、
だが、
君たちのするような帰依のとびらからは決して天国に入りたくない。

 

私はそのような種類の救済は好きではない。

君たちのシュリ・ラーマクリシュナがそんな教義を説いているのなら、
私は彼の言うことを聞く耳をもたない。

 

おぼえておいてくれ!

君たちも知ってのとおり、
ある日、私は愚かにも師にこの種の帰依と救いを求めた、
すると彼は
私をおしかりになって、
私のことを利己的で心が狭いとおっしゃった。

 

君たちの言葉にまどわされるものか。

私は彼がおっしゃったとおりに働く。

自分の救いなどという考えを捨てて、他者の善のために働く用意のあるものは、
私が彼のしもべであるとわかってくれる。

 

※引用元:『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想

 

 

 

見 て こ の 格 好 良 さ 。

 

 

 

この人経由じゃなかったら、
「肝心なところは何を言ってるのか全然わからない!」(笑)という初期段階で
「ヴィヴェーカーナンダ超格好良い!!!」というただそれだけでヨガ街道爆走とか
絶対できてない。(笑)

絶対に今生ヨガやってない(ヨガ街道に復帰できてない)し
ラーマクリシュナにも興味も持ってない。(笑)

 

あ、ラマクリ師匠は、
自分の修行期が終わったあと、「先生」になったあとは、
生徒や弟子の気質に合わせて、指導方法を変えてらしたんですよ。

(そしてヴィヴェーカーナンダには英才教育をなさったんですてこれが...…笑)

 

 

これは、
んーと、日本でたとえを探すなら、

小学1年生と、受験前の高校3年生が同じ授業を受けることはできないし、
理系と文系、商業高校と工業高校、IT系と料理系と美容師の専門学校では
生徒が求める内容も違いますから、
教える側としても、指導方法も指導内容も変える必要がある、

という感じでしょうか...。

まあ、
そして、
大学院生にまでなると、
教授も、
「自分で研究テーマ見つけて研究しなさい、
 自分で調べてもわからないような質問があったらしてきなさい。」
くらいしか言わないのではないかと。笑

 

たくさんの生徒を教えていらっしゃる先生とか、
長い期間生徒を指導してくださる先生ほど、

生徒の個性に合わせて&生徒の成長度に合わせて、
指導内容は変えておられるはずです。

 

 

……あ、わたしが、生徒として、先生から学ぶことに対して、
クリシュナムルティと違って、笑)非常に好意的(?)なのは、

 

「私の言葉に真実が一欠片でもあったとすれば それは師のおかげ、
 誤りや過ちは すべて私の身から出たことです」

 

っていう 謙虚の塊 みたいなパーソナリティを、一番最初に知ったからです。
 

 

 

勿論これもヴィヴェーカーナンダの台詞です。

 

 

 

ちなみにこれには続きがあって(笑)、

順番として、私、今回ご紹介した内容が載ってる
『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想』という本を読んだあとに、
『あるヨギの自叙伝』を読んだんですね。

で、
ヴィヴェーカーナンダも、Mことマヘンドラナートグプターさんも、
『あるヨギの自叙伝』に登場してるんですよ。

※参考:マヘーンドラナート・グプター - Wikipedia 

 

 余談ながら、このマヘンドラナートグプターさんもですね、
 『ラーマクリシュナの福音』に出てくる登場人物としては
 死ぬほど謙虚な人なんですよ。

 おかげで、『あるヨギの自叙伝』を読んだときの第一声が、

 

えっあなたそんなにすごいことできるのに
全然それについては公言してないんだね?

この本読まなかったら知らなかったよそんなことできるなんて!

 

 という衝撃になったわけです。(事実)


 あと、ポール・ブラントンさんとラマナ・マハルシのときみたいに、
 ヨガナンダさんにも、ユクテスワさんについての予言をしてるんですよ。

 曰く、

 

わたしはお前の師ではない。お前の師はやがておいでになる。

その師の導きに寄って、
これまでお前が愛と信仰を通して得ていた神の経験は、
はかりしれない英知を通しての経験へと変わってゆくだろう。
 


…あ、今気づいたけど、Mまでも、
バクティ(愛と信仰)の後にギャーナ(英知)の法則の話をしてたのか…
(衝撃)

 

  

で、『あるヨギの自叙伝』曰く(笑)、

 

ヴィヴェーカーナンダは、
ヨガナンダさんが生まれた年(1893年)アメリカで講演してて、

その最中に、
それから32年後にヨガナンダさんの弟子になる当時17才の少年に会って、
(しかも彼が5才のときに池で溺れたのをこそっと助けたらしい)

その少年の、口には出せなかった内心の想いを読み取って、
(自分の先生だって言ってくれないかな?って思ったそうです)

 

「いいえ息子さん、わたしはあなたの師ではありません。
 あなたの先生は、あとで来ます。」

って言った挙句、

 

さりげに43年後(彼がヨガナンダさんの弟子になってから11年後)に
ヨガナンダさんが、彼用のお土産に銀のコップを買ってくるのを予知して
(ヨガナンダさんも、これは彼に!と特に思って買ったそうです、笑)

 

「その人は、あなたに銀のコップをくれるでしょう。」
「その先生は、今のあなたには受け入れることができないほど大きな恵みを、
 あなたに注いでくださいますよ」

って伝えて去って行ったそうなんですね。(3イベント発光付)

 

 

 

12年前に(はるか遠方で)溺れていた少年を助け、

32年後に彼の前に現れる先生(ヨガナンダさん)
43年後にお土産として彼に渡すものを予言するって、

なにをどうやったら身につく能力なの?

 

そんなことができるのに 高慢さ皆無な人格って、
いったいどうやったら生まれるの?

 

 

っていう、当時の人生史上最大の衝撃をうけたわたしが
ヴィヴェーカーナンダに骨抜きになっても仕方ないとおもうんですよ。(事実、笑)

 

ヨガ界の聖者さんたちの師弟関係ってめちゃくちゃ凄いんだ…!
わたしもヨガやりたい…!!!
ってヨガ街道に転がり落ちても、仕方ないと思うんですよ。(多分、笑)

(ディキンソンさん、このエピソード教えてくださって本当にありがとう…!)

 

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝

 

 

 

 

師弟関係の最初の印象が悪かったら、
無師独悟コースしかもうないのかもしれないのですが、
それわたし絶対無理やった

 

そもそも何言ってるか読んでもわけわかんないし(致命傷、笑)、
そもそもわたし、こういうジャンルにそんなに興味なかったんです、
今生の最初は。

ヨガは、アーサナのとこを、
体操とかストレッチのような印象で知ってたんですけど、
瞑想は、瞑想という言葉自体がそもそもわたしの日常生活の縁の中になかったです。

 

漠然と、
肉体が死んだあと無になるならそれでよし、
輪廻転生が存在するならもう卒業したい、とは思ってたけど、

まあ漠然としたもので、
スピリチュアルジャンルにとくにハマっていたわけではありませんでした。

友達が一時期、(日本的なタイプの)霊障に煩わされていたので、
その友達にくっついていって(笑)、一緒に勉強はしまして、
その過程で
スピコン(でしたっけ...?)も1回だけ連れて行ってもらったような...(記憶朧)。

その程度です。

 

 神社とお寺は、奈良生まれの京都育ち(笑)なだけあって、
 非常に身近にめっちゃたくさんありましたので(笑)
 子供のころからよく
神社もお寺も参拝参詣しましたが、

 ………今は……


  いえ、今でも行くのは行くんです、聖地。

 でも、私、今、外界も自分の内側に知覚してるんで、
 聖地もパワースポットも全部、自分の中にあるんですよ。

 エネルギーが良い場所は、悪い場所よりは(笑)勿論好きですが、
 だからといって、「私」がパワーをもらうとか、そういう話でもないんですよ。

 自分の中の1部分から、全体である自分がエネルギーを貰うって、
 なんかしっくりこないというか、
 それどっちかというと逆の方が自然じゃない?という。

 

 私の心(や体)を癒やして貰うとかは勿論可能だとは思うんですが、

 …あ、そういえばわたし、一回、仕事中に肉体の全身筋肉痛直してもらったな…

 

 …ご存知かどうかわからないんですが、
 たぶん結構有名な神社なほうだと思うんですが、
 奈良県の山奥、紀伊山地に、
天河大辨財天社という神社があるんです。

 友達がその神社に縁ありまして、わたしもそこ好きなんです。

 で、まだ瞑想もヨガも全然やってないころ、
 3日連続の12時間のイベント仕事(笑、今ならブラックですね)で走り回ってて
 2日目にして全身筋肉痛になって(笑)
 わずかに動けば響く激痛に苦しんで接客雑用をしてたことがあったんですが、

 仕事の休み時間に、椅子に座って、目を閉じて、
 天河神社のことふと思い出したら、
 次の瞬間、筋肉痛が煙のようになくなったんですよ。

 そう、あれはびっくりした!

 びっくりしたんですけど、
 その後は至って順調に仕事をこなせたという(笑)記憶に埋もれて忘れてました。
 おお懐かしい!

 でも、その一回だけでしたけど(笑)
 またもう一回ないかなとか期待しても二度となかったですけど(笑)

 …あれかな…やっぱり、
 「一度はやってあげたでしょ、出来るってことはわかったでしょ、
  じゃあ次からはやりたかったら自分でやりなさいよ」
 っていう指導かな……

 ・・・・はい、そうします。(笑)

 

 で(笑)、まあ、どちらにしても、今は、
 遍在のサット・チット・アーナンダの至福で解決可能なものを

 わざわざ貰うのもどうなの、という話なわけで、
 それよりは、この至福を一緒に共有しましょうとかそういう話をします(?)。
 (このソーマを一緒に飲みましょうなノリやな、笑)

 「交流」または「循環」は嬉しいし、そもそも聖地は大好きなんですが(笑)、
 まあ
 その
 めっちゃくちゃエネルギーがクリアでパワフルな友達に逢いに行くような...
 …感じです。

 

 

 

まー、ほんっとに、神業シナリオでした。

たったひとつでも何かどこかで違ったことになってたら、私の今がないです。

 

そんなわけで、
わたしの今生の土台をつくったのはヴィヴェーカナンダであるがゆえに(笑)
こういう感じの「先生大好き」な(笑)師弟関係はめっちゃくちゃ憧れです。

 

「生徒に準備ができたとき、先生が現れる」という格言(?)も好きだし、
外側の先生があなたにいるなら、あなたは幸運だ、と思う派です。

 

「先生が本物で生徒が本気だったら、最高の結果が生まれる」んだと思います。

 


 

ヴィヴェーカーナンダのあとにあんまり紹介したくないんですけど(事実)、
わたしの、ラマクリ師匠にまつわる今生分のバクティ・ヨーガ体験談は
ご紹介しておきます。

 


わたしは、今生、
時期が来るまで、
ラーマクリシュナに対しては、一切の感想を持たせてもらえませんでした。

写真を見ても、教えを読んでも、完全無反応でした。

 

ヴィヴェーカーナンダの思い出としてのラーマクリシュナとか、
マヘンドラナートグプタさんの思い出としてのラーマクリシュナとか、
他のお弟子さんの思い出としてのラーマクリシュナとか、
そこに感動はできるんです。

 

が、わたし個人が直接ラーマクリシュナに向かおうとすると、
シャッターが閉じているとでもいうんでしょうか、全く反応できなかったんです。

何もできませんでした。

 

その理由は、おそらく、当時のわたしの心身が汚すぎたからです。

 

 

わたしが今生で瞑想を始めて
(つまり、今生で初めてトウリーヤ・サマーディに入れるようになって)から
2ヶ月弱くらいすぎたころに、

今生で初めてボブフィックスさんにお会いしたというか再会した(笑)んですが、

そのときに、わたし、五下分結がぶった切れたんですね。(ビギナーズ恩寵、笑)

※参考: 四向四果 - Wikipedia 

 

で、五下分結が切れると、仏教でいう欲界への欲がなくなるらしいんですが、

 

 …あ、欲界が終わってるから、物質次元での直接指導がほとんどなかったのか!

 わたし、ボブさんの肉体に物質次元でお会いしたの、
 この10年間でトータル100時間すらいってないんですよ。

  …え、なんでそんなに合理的に省エネやのん?
  いやそれが果たして省エネなのかどうかはわたしにはわからんねんけど。

 えー、
 ボブさんのおかげでわたしの今があるんですよレポートについては
 原稿用紙1000枚あっても足りないんで(事実)、この2文でまとめておきます。

His name is Love ⓒ「愛が呼ぶ方へ」
彼が永遠に私の先生で、先輩で、同志でありますように。

 

 

それから約半年後…うん、半年後くらいですね。

毎日こつこつ瞑想やって、
その結果
アートマン化短期体験も(一瞥×効果数日と、2時間くらいの)2回やったあとに、

はじめて、
わたしの中で、ラーマクリシュナに反応が生まれました。

 

たとえば、

ラーマクリシュナの写真(ウィキペディアにも載ってましたが、
立ったまま片手挙げてサマーディに入ってるやつです)を肉眼で見ると、

 

次の瞬間サマーディ落ち。(いやー、ほんとコレ裏切らない、笑)

 

わたしの感想では、
「息出来ない動けない、ちょっとまって今はやめてええええええええええ」
という感じです。

「今生は市井にいるんだよ、
 好きな時に好きなだけ(世界を無視って)瞑想三昧に浸っていいという天国には
 いないんだよ!」
と己の習慣に教え込むのが大変だったやつです。(笑)

 

またたとえば、

心の中で思い出そうとか思い描こうとすると、
また会えて嬉しいのか今会えなくて寂しいのかわかりませんが、
感極まって、大号泣。

たとえ公共の場であろうと、たとえ職場であろうと、容赦なく大号泣。

 

で、わたしの場合は、
その後、思い描いた像が薄くなって、背後に溶けるような感じになりまして、
その背後の空間がいきなり広がります。


そこで勿論サマーディ落ち。泣きながら。(安定のニルヴィカルパクオリティ、笑)

 


先生=神(ブラフマン)=真我(アートマン)なんですから、
アートマンを愛する自我(エゴ)としては、非常に正しい反応です。

今となっては納得はしてます。

 


でもね、
当時はね、
渦中にいるとね、

 

「好きなのはわかった。だからちょっと待ってくれ。もうちょっと制御してくれ。」
「コントロールする気がないならもう最初からとりあげるからなこの野郎!!!怒」

 

という結論に至るわけですよ、今生わたし一般人だったんで。

今となっては笑い話で一つのネタですが、当時は真剣に大変でした。(笑)

 

 

......ちなみにこれ、
自我(エゴ)ご臨終後には何か変わったかというと、

更にひどくなりました

 


あらゆるところに彼の臨在は感じます。

これでギリギリです。

 

肉眼で写真は見れません。
ウィキペディア読むときも、写真は避けて文字だけ読んでます。(笑)
内心での想像もできません。

使わせてもらえるのは、彼の「教え」だけです。

 

ぶっちゃけると、わたしこのくだりの文章泣きながら書いております。

彼に対して、自分で直接リアクションを起こしたら、わたし人間なんかやれない。

 

「わたしをあなたのところに帰してください」口走るから、
世界の中で個を保とう、という決意と努力が根こそぎ折れます。

だがしかし!
その願望を叶えないのがラーマクリシュナ、その実例がヴィヴェーカーナンダ!(笑)

 

 

 

まあ、そんなわけで(笑)、
バクティ・ヨーガ」のコースでも、
最終的にはニルグナ・ブラフマンとの梵我一如まで可能なはずです。

それも保証します。

 

ただし、
現代の日本に生まれ、且つ、バクタ気質がある場合は、
かなりの確率で、
アートマンが永久化した後に、
そして、ニルグナ+サグナ=ブラフマンに移行した後に、
何らかの形で、
世界の中で働かされると思います(笑)。

 

今、先生方、皆さんめちゃめちゃ走って(仕事して)らっしゃいますから。
師走ですから。(笑)

 

 

 

1927年 「解放」

 

さて、クリシュナムルティの講演に話を戻します。

 

以下の講演のタイトルは「解放」だったそうなのですが、
「自灯明」でもいいんじゃないかなと私は思います。

  

 

あらゆるものの<本源>であり、
終極的<目標>であり、
始まりであって終わりであり、
しかも始めも終わりもない、
永遠なる<生>がある、と私は言明する。

 

そのような<生>においてのみ大願が成就されるのである。

 

そのような<生>を実現するものは、
何人であるかを問わず、無条件に<真理>への鍵をつかむのである。

 

そのような<生>の中に、仏陀もキリストも入ったのである。

 

私の見解では、
私もその<生>に到達し、その中に入った。

 

その<生>は無形である、
ちょうど<真理>が無形であり、無制限であるように。

そして
何人も その<生>に帰入しなければならない。

 


 

何人にも、いかなるものにも従ってはならない時がきた。

 

…諸君は
何人にも耳を貸すことなく、
ひたすら諸君自身の直観、諸君自身の理解にのみ
耳を傾けるようにしてほしい。


諸君に解脱をして聞かせるものたちには、きっぱりと拒否を表明することである。

 

 

 

...絶対、最期の障害の1つが「先生」だったな、彼...(笑)

これは、十牛図でいうなら、10番目の状態での講話です。

※参考:十牛図 - Wikipedia 

 

…...........あれっ。

えっなにこれすごい。

 

この「十牛図」
私今初めてじっくり10枚の絵と説明を知ったんですけど、これ凄い!

何この神業!
日本文化真剣凄い!!
アルクールジャパン!!!表情ほっ(いや、発祥地を考えると中国なのか?笑)

うわーほんとに知らなかった…!

いえ、流石に存在は知ってたんですけど、
じっくりウィキペディアの説明を読んだことがなかったので…!!

 

8番目の完全白紙の絵は、初めて見たときから、

「ニルグナ・ブラフマンとの梵我一如の、世界が消えちゃうバージョンかな」

って思ってたんですけど、
その手前にある、どんどん「忘れていく」とゆー説明もネ申!

「サンスカーラを消滅させるサマーディ」に入ったら、
自分の側の日々の感想としてはこうなるんですよ!!
これがサンスカーラ削除サマーディの感想!!!
これほんとにその通り!!!!

 

しかも、9枚目と10枚目もまさにそのままとしか!!!!!

9枚目に人の姿が描いてないところも、
10枚目の人は酒瓶を持っている(バージョンがある)ところもネ申!!!!!!

わたしニルグナ・ブラフマン化してたとき、
一時期、「自分のこと人間だと思えない」とか言ってたんですけど(笑)、
そうすると心象風景(?)はまさにあんな感じです。

10枚目はもう一回人が現れるけど、
もう大人になってる上に酒瓶を持ってる(バージョンがある)のは、
至福に酔ってます、またはソーマ&アムリタ(不死の甘露)を吞んでますの
比喩ですよね??

えっ、真面目に、真剣、この絵描いた方、間違いなく絶対に仲間!!!!!!

 

 

・・・もとい。(笑)

 

「方法さえ教えてくれれば、やりかたさえ教えてくれれば、自分でやるから!」

が私の今生の口癖でしたが(笑)、
解脱について話す人たちが、解脱させてくれるわけじゃないです。

というか、最期は邪魔です。(笑。理由は前述の通りです)

 

ただ、まあ、
幸運にも(これはわたしの感想ですが、笑)(外側の)先生がいたとしたら、
ゴールギリギリまで、断崖絶壁のギリギリまで(自力で)きていた生徒の背に
そっと触れて、突き落とす(笑)くらいなら、してくれるかもしれません。

 

これは私の個人的な体感なんですけども、
「一人一人が持っている、自分で行動する権利を侵害してはならない」
っていうストッパーみたいなものがあるんですよ。

これを超えてのサポートは、できないはずです。

 

 

・・・・・・現代語風に言い換えるなら、

「ママがなんでもちてあげまちゅからねー、
 ○○ちゃんは ママの言う通りにちていればそれでいいんでちゅよー」

って子供に対して思ってる親とかそう言い続ける親とかって、ただの毒親じゃね?
それを大人になっても喜ぶ子供って、単なる共依存じゃね?

という感覚かなと。

 

「マスター方は、生徒をマスターに育てたいんだよ」と、私が言う所以です。

 

 

この「解放」という講演内容は、『クリシュナムルティの瞑想録』という本の
「訳者あとがき」のところに載っていまして、
英語原文がちょっとわかりませんでした。

訳者の大野純一さんは、このあたりの内容を
"KRISHNAMURTI―The Years Of Awakening : by Mary Lutyens,1975."
という本を主に参考になさったと書いてあるんですが、
この本私持ってないんで…。

 

 まー、日本語でも迫力あるので十分だと思いますが…!

 

 

そして、この講演の2年後に行われたのが、「教団解散宣言」だそうです。

 

"Truth is pathless land"
「真理はそこへ至る道のない土地である」

 

という台詞が有名らしいのですが、
読んでみたら、まあ、なんていうか、

『いやこれ全部読まなあかん。一部ではあかん』

と真剣思ったので、全文をご紹介します。

 

英語を調べたら、日本語訳にする際省略されているところがあったらしくて、
その部分は一応わたしが訳しました。(色がついている部分です)

  

 

 

"Dissolution Speech" August 3, 1929
1929年 「星の教団解散宣言」

 

1929年8月2日、オーメン・キャンプは、
緊張と期待に満ちた雰囲気の中で開かれた。
参加者の多くは、これから何が起ころうとしているかを知っていた。
翌朝、ベザント夫人と、三千人以上にものぼる<星の教団>のメンバーを前にして、
また、ラジオに耳傾ける多くのオランダ人たちに向かって、
クリシュナムルティは<星の教団>の解散についての演説を行った。

 

We are going to discuss this morning the dissolution of the Order of the Star.
今日、これから私たちは、<星の教団>の解散について話し合いたいと思う。

 

Many people will be delighted, and others will be rather sad.
喜ぶ人々も多いだろうし、悲しむ人々もまたいることであろう。

 

It is a question neither for rejoicing nor for sadness,
because it is inevitable, as I am going to explain.

しかし、これは喜ぶとか悲しむとかいった問題ではない。
なぜなら、これは避けがたいことだからである。
その理由について私はこれから説明しようと思う。

 

You may remember
the story of how the devil and a friend of his were walking down the street,
when they saw ahead of them
a man stoop down and pick up something from the ground,
look at it,
and put it away in his pocket.

この物語を覚えているだろうか。
道を歩いていたある男が、身をかがめて地面から何かを拾い、それを見た、
そして、彼はそれをポケットの中に入れた―
その様子を、悪魔とその仲間が見ていて、彼らがどうしたかを。

The friend said to the devil, “What did that man pick up?”
“He picked up a piece of Truth,” said the devil.

悪魔の仲間が悪魔に言った、「あの男は何を拾ったんだ?」
「真理の欠片を拾ったのさ」と悪魔は言った。

“That is a very bad business for you, then,” said his friend.
“Oh, not at all,” the devil replied, “I am going to let him organize it."

「おまえにはすごく厄介なことじゃないか」と仲間は言った。
「問題ない」悪魔は答えた、「あいつが、それを組織化するように仕向けてやる」

 

 

I maintain that Truth is a pathless land,
and you cannot approach it by any path whatsoever, by any religion, by any sect.

私は言明する。
<真理>はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。
いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、
諸君はその領域へ近づくことはできない。

 

That is my point of view, and I adhere to that absolutely and unconditionally.

これが私の見解であり、私はこの見解を絶対かつ無条件に確信している。

 

Truth, being limitless, unconditioned,
unapproachable by any path whatsoever, cannot be organized;
nor should any organization be formed
to lead or to coerce people along any particular path.

<真理>は限りないものであり、
無制約的なものであり、
いかなる道によっても近づきえないものなのであって、
したがってそれは組織化されえないものなのである。
それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するような
いかなる組織も形成されるべきではないのである。

 

If you first understand that, then you will see how impossible it is to organize a belief.

諸君がまず最初にこのことを理解されるならば、
あるひとつの信念を組織化することがいかに不可能なことであるか、
おわかりになることであろう。

A belief is purely an individual matter, and you cannot and must not organize it.

信念は純粋に個人的な事柄であり、
それゆえ組織化したりすることはできないし、またすべきでもないのである。

 

If you do, it becomes dead, crystallized;
it becomes a creed, a sect, a religion, to be imposed on others.

ひとたび組織化したならば、
信念は 血の通わない、凝り固まったものとなってしまうであろう。
それは、他人におしつけられる教義に、教派に、宗教になってしまうのだ。

 

This is what everyone throughout the world is attempting to do.

ところがこれこそが今、
世界中であらゆる人々がなさんと企てていることに他ならない。

 

Truth is narrowed down and made a plaything for those who are weak,
for those who are only momentarily discontented.

<真理>は狭隘化され、
弱い人々、たまさかに不満をくゆらせる人々の慰みものとなってしまうのだ。

 

Truth cannot be brought down,
rather the individual must make the effort to ascend to it.

<真理>は諸君のところまで引きずりおろせるようなものではない。
そうではなくて、
各人ひとりひとりがそこまでたどりつくよう 精進しなければならないものなのだ。

 

You cannot bring the mountain-top to the valley.
諸君は、山頂を谷へ運び移すことはできない

 

If you would attain to the mountain-top
you must pass through the valley, climb the steeps,
unafraid of the dangerous precipices.

もし諸君が山頂に到達したいのであれば、
諸君らは、谷をくぐり抜け、危険な絶壁を恐れず、急な道を登っていかなけばならない。

 

So that is the first reason, from my point of view,
why the Order of the Star should be dissolved.

以上が、私の見解よりした<星の教団>を解散すべきまず第一の理由である。

 

In spite of this, you will probably form other Orders,
you will continue to belong to other organizations searching for Truth.

このように申し上げても、
諸君はおそらく、別の<教団>を作りあげられることであろうし、
<真理>を求めて別の組織に所属しつづけることであろう。

 

I do not want to belong to any organization of a spiritual kind, please understand this.

しかし私としては、心霊的な類のいかなる組織にも属したいとは思わない。
どうかこのことを理解していただきたい……

 

I would make use of an organization which would take me to London, for example;
this is quite a different kind of organization,
merely mechanical, like the post or the telegraph.

たとえば、私はロンドンに行くために、ある組織を利用する。
これは、まったく異なる種類の組織であり、郵便や電信のように、単に機械的なものだ。

I would use a motor car or a steamship to travel,
these are only physical mechanisms which have nothing whatever to do with spirituality.

私は、旅行に行くために自動車や汽船を使う。
これらは、単なる物理的なメカニズムであって、
霊性スピリチュアリティ)とは何の関係もない。

 

Again, I maintain that no organization can lead man to spirituality.

もう一度、私は言明する。
「組織」が「人間」を霊性へと導くことはできない。
 
 

If an organization be created for this purpose,
it becomes a crutch, a weakness, a bondage, and must cripple the individual,
and prevent him from growing, from establishing his uniqueness,
which lies in the discovery for himself of that absolute, unconditioned Truth.

真理探究の目的で組織を創設するならば、
組織は松葉杖となり、弱点となり、束縛となって、人をかたわにし、
かの絶対かつ無制約的な<真理>を自分自身で発見するために必要な、
その人の独自性の成長と確立
を阻害するものとなってしまうに相違ない。

 

So that is another reason why I have decided,
as I happen to be the Head of the Order, to dissolve it.

これが、たまたま教団を率いる者となった私が、
教団を解散しようと決意したもうひとつの理由である。

 

No one has persuaded me to this decision.
私を説得しこの決定を覆させることは、誰にもできない。

 

This is no magnificent deed, because I do not want followers, and I mean this.
The moment you follow someone you cease to follow Truth.

これは何らだいそれた行為ではない。
私は信奉者を欲しないからだ。
私の言いたいのは、諸君が誰か特定の個人のあとを追うやいなや、
<真理>の後を追うことをやめてしまう、ということである。

 

I am not concerned whether you pay attention to what I say or not.

私は、諸君が私の言うところに注意を払われるか払われないか、
そのことには興味がない。

 

I want to do a certain thing in the world
and I am going to do it with unwavering concentration.
I am concerning myself with only one essential thing:
to set man free.

私はこの世であるひとつのことをなしたいと思う。
私はそのことにたゆむことなく専念するつもりである。
私はある根本的なひとつのことにのみ関心を持っている。
人間を自由たらしめること、すなわちこれである。

 

I desire to free him
from all cages, from all fears, and not to found religions, new sects,
nor to establish new theories and new philosophies.

人間をあらゆる獄舎から、あらゆる恐怖から解き放つこと、これが私の願いである。
私はいかなる宗教も、新しい教団も作りたくないし、
いかなる新しい理論も、新しい哲学も確立したくはない。

 

Then you will naturally ask me why I go the world over, continually speaking.

諸君は当然こう問うことであろう、
ではなぜあなたは、絶えず話しつづけながら世界をめぐるのか、と。

 

I will tell you for what reason I do this:
not because I desire a following,
not because I desire a special group of special disciples.
(How men love to be different from their fellow-men,
however ridiculous, absurd and trivial their distinctions may be!
I do not want to encourage that absurdity.)

私がそうするわけを諸君にお話しすることにしよう。
新たな弟子が欲しいからでも、
特別の使徒たちからなる特別のグループがほしいからでもない
(人間は何とその仲間たちと違っていたいと願うことであろうか!
その相違がどんなに滑稽で、馬鹿げていて、些細なものであろうとも。
わたしはそうした愚劣さを増長させたいと思わない)。

 

I have no disciples, no apostles, either on earth or in the realm of spirituality.

私は、地上においてであれ、霊性の領域においてであれ、
いかなる弟子も使徒も持ったりはしない。

Nor is it the lure of money, nor the desire to live a comfortable life, which attracts me.
If I wanted to lead a comfortable life
I would not come to a Camp or live in a damp country!

金銭の誘惑も、安楽な生活への欲求も、私をひきつけはしない。
快適な生活を送りたければ、
私は何もこのキャンプのようなところへ来たりはしないし、
じめじめした土地で暮らしたりはしない!

 

I am speaking frankly because I want this settled once and for all.
I do not want these childish discussions year after year.

私は歯に衣着せずに申しあげているのだが、そのわけは、
今回限りで、こういったことにはっきりと決着をつけてしまいたいからに他ならない。
こういった子供じみた議論を何年も何年も続けたくはないのだ。

 

 

One newspaper reporter, who interviewed me, considered
it a magnificent act to dissolve an organization
in which there were thousands and thousands of members.

私にインタビューしたある新聞記者は、
何千人ものメンバーがいる組織を解散することはまことに大それた行為だと考えた。

To him it was a great act because, he said:
“What will you do afterwards, how will you live?
You will have no following, people will no longer listen to you.”

彼にはそれは途方もない行為に思われた。
彼はこう言ったのである。
「今後、どうなさるおつもりですか。
どのように生きていくのですか。
従うものはいないでしょうし、
人々はもはやあなたの言うことに耳を傾けないでしょう。」

 

If there are only five people
who will listen, who will live, who have their faces turned towards eternity,
it will be sufficient.

真実耳を傾ける人が、真実生きようとする人が、真実その顔を<永遠>に向ける人が
五人いさえすれば、それでもう十分である。

 

Of what use is it to have thousands who do not understand,
who are fully embalmed in prejudice,
who do not want the new,
but would rather translate the new to suit their own sterile, stagnant selves?

理解しない人々、
偏見にどっぷりつかっている人々、
新しいものを欲せず、
新しいものを自分の不毛でよどんだ自我に合わせて勝手に解釈しようとする人々、
こういった人々が幾千いたところで一体何になるであろうか……

 

If I speak strongly, please do not misunderstand me,
it is not through lack of compassion.

私が強い語調で話しているからと言って、誤解しないでほしい。
それは、諸君らに対する思いやりが欠けているせいではない。

If you go to a surgeon for an operation,
is it not kindness on his part to operate even if he cause you pain?

あなたが手術のために外科医のもとに行くとき、
たとえ彼があなたに痛みをもたらしたとしても、
それは彼の優しさではないだろうか?

So, in like manner, if I speak straightly,
it is not through lack of real affection–on the contrary.

それと同じだ。
それゆえ、
率直に話すが、

これは、真の愛情の欠如のためではない― 真逆だ。

 

 

As I have said, I have only one purpose:
to make man free,
to urge him towards freedom,
to help him to break away from all limitations,
for that alone will give him eternal happiness,
will give him the unconditioned realization of the self.

既に言ったように、私は、ただ1つの目的しか持っていない:
人を自由にすること、
自由へと導くこと、
すべての制限/限界を打破するよう助けることである。
なぜなら、それだけが、
彼に、永遠の幸福と、「
絶対的で無制限である自己」の 実感と実現をもたらすからだ。

 

Because I am free,
unconditioned,
whole–not the part, not the relative, but the whole Truth that is eternal–
I desire those, who seek to understand me to be free;
not to follow me,
not to make out of me a cage which will become a religion, a sect.

私は自由であり、
何ら制約されておらず、
全体 ― 部分的でも相対的なものでもない、一個の全体としての、
永遠の<真理>
であるがゆえに、
私は私を理解しようとする人々もまた、自由であることを願うのである。
私に従おうとしたり、
私を使って、獄舎に等しい宗教や教団を作り出そうとするような人々を
私は望まないのだ。

 

Rather should they be free from all fears–
from the fear of religion,
from the fear of salvation,
from the fear of spirituality,
from the fear of love,
from the fear of death,
from the fear of life itself.

人々はむしろ、すべての恐怖から自由であるべきなのである――
宗教の恐怖から、
救済の恐怖から、
霊性の恐怖から、
愛の恐怖から、
死の恐怖から、
そして生そのものの恐怖から。

 

As an artist paints a picture because he takes delight in that painting,
because it is his self-expression, his glory, his well-being,
so I do this and not because I want anything from anyone.

芸術家が、画を描くこと自体が楽しいがゆえに、
それが彼の自己表現であり、栄光であり、幸福であるがゆえに画を描くように、
そのように私も行うのであって、何らかの見返りを求めて行うのではない。

 

You are accustomed to authority, or to the atmosphere of authority,
which you think will lead you to spirituality.

諸君は、諸君を霊性へ導いてくれると諸君が考える権威や、その権威の雰囲気に
馴れ親しんでしまっている。

You think and hope that
another can, by his extraordinary powers--a miracle–transport you
to this realm of eternal freedom which is Happiness.

諸君は
他の誰かが、
その驚嘆すべき力――奇蹟――によって、
<幸福の国>である永遠の自由の領域に
諸君を連れていってくれるものと考え、またそう望んでいる。

Your whole outlook on life is based on that authority.
諸君の人生に対する見方全体が、そのような権威に基づいて行われているのだ。

 

 

You have listened to me for three years now,
without any change taking place except in the few.

諸君は今日まで三年間にわたり私の説くところを聞いてこられた。
しかしごく少数の者を除いては、いかなる変化も起こりはしなかった。

Now analyze what I am saying, be critical,
so that you may understand thoroughly, fundamentally.

いまや、私の言っていることを検討され、批判され、
かくして徹底的に、根本的に理解されんことを……

 

When you look for an authority to lead you to spirituality,
you are bound automatically to build an organization around that authority.

諸君が、自らを霊性スピリチュアリティ)へと導く権威を探し求めるとき、
諸君らは、自動的に、その権威のまわりに組織を構築するよう縛りつけられる。

 

By the very creation of that organization,
which, you think, will help this authority to lead you to spirituality,
you are held in a cage.

『自らを霊性スピリチュアリティ)へと導いてくれるこの権威を助けよう』
と、あなたが思う、その組織が、
組織を創るという行為そのものが、あなたを獄舎に閉じ込める
のだ。

 

If I talk frankly, please remember that I do so,
not out of harshness, not out of cruelty, not out of the enthusiasm of my purpose,
but because I want you to understand what I am saying.

私が率直に話すとき、
私がそうする理由が、

冷酷だからではなく、
残虐に傷つけたいからでもなく、
私の目的に対する熱意からでもない、

私の言っていることを、諸君に理解してほしいからだ、
ということを覚えていてほしい。

 

That is the reason why you are here,
and it would be a waste of time
if I did not explain clearly, decisively, my point of view.

それが、諸君がここにいる理由であり、
もし私が、私の見解を、明瞭に、きっぱりと説明しないならば、
それは時間の無駄になるからだ。

 

For eighteen years you have been preparing for this event,
for the Coming of the World Teacher.
For eighteen years you have organized,
you have looked for someone
who would give a new delight to your hearts and minds,
who would transform your whole life,
who would give you a new understanding;
for someone
who would raise you to a new plane of life,
who would give you a new encouragement,
who would set you free
and now look what is happening!

十八年間にわたり、
諸君はこのことのために、<世界教師の到来>のために準備万端整えてこられた。
十八年間にわたり、諸君は組織作りを行ない、
諸君の心情と精神に新たな歓喜をもたらすであろう誰かを、
諸君の人生全体を変容してくれるであろう誰かを、
諸君に新たな理解をもたらすであろう誰かを待ち望んできた。
諸君は、諸君を生の新たな地平に引き上げてくれるであろう誰かを、
諸君を新たな形で激励してくれるであろう誰かを、
諸君を自由にしくれるであろう誰かを、
待ち望んできたのである――
そして今、何が起こっているかごらんになるがよい!

 

Consider, reason with yourselves,
and discover in what way that belief has made you different–
not with the superficial difference of the wearing of a badge, which is trivial, absurd.

考えられよ、諸君自身で判断され、そして発見されよ。
かかる信念によって諸君はいかなる変貌をとげられたかを――
バッジをつけるようになったとかいう表面的な変化ではない。
それは些末で馬鹿げたことである。

 

In what manner has such a belief swept away all the unessential things of life?

判定する唯一のやり方はこうである。
かくのごとき信念が、
人生の非本質的な物事すべてを、
はたしてどのようにして一掃してしまったのであろうか。

 

That is the only way to judge:
in what way are you freer, greater, more dangerous
to every Society which is based on the false and the unessential?

虚偽と非本質的なものとにその基盤をおいているすべての社会から、
諸君はどれだけ自由であり、どれほどはみ出し、
そしてそのような社会にたいして、どの程度危険なものになっているだろうか。

In what way have the members of this organization of the Star become different? 
<星の教団>のメンバーはどんな点でどのように違ったものとなったであろうか…

 

 

As I said, you have been preparing for eighteen years for me.
私が言ったように、諸君は、私のために18年の間、準備を整えてこられた。

I do not care if you believe that I am the World–Teacher or not.
私は、諸君が私を世界教師であると信じているかどうかに、興味はない。

That is of very little importance.
そんなことはほとんど重要ではない。

 

Since you belong to the organization of the Order of the Star,
you have given your sympathy, your energy, acknowledging
that Krishnamurti is the World–Teacher– partially or wholly:
wholly for those who are really seeking,
only partially for those who are satisfied with their own half-truths.

諸君が「星の教団」という組織に属しているために、
クリシュナムルティは、
 部分的に、あるいは、完全にー
 ー
本当に探している人は完全に、自身の半分の真実で満足する人は部分的にー
 世界教師である』と認めること、
そのことに対して、諸君らの共感と諸君らのエネルギーを注いでこられた。

 

You have been preparing for eighteen years, and look
how many difficulties there are in the way of your understanding,
how many complications, how many trivial things.

諸君は18年間準備を整えてこられた、
そしてご覧になるがよい、

諸君の理解能力(理解する方法)の中にはいかに多くの難点があるかを、
どれほど多くの混乱と紛糾があるかを、
どれだけ多くの些細な物事であふれているかを。

Your prejudices, your fears, your authorities, your churches new and old–
all these, I maintain, are a barrier to understanding.

あなたの偏見、
あなたの恐れ、
あなたが持つ「
権威」、
あなたの新しい教会、そして古い教会、
これらすべてが、
理解の妨げとなっていると、私は断言する。

I cannot make myself clearer than this.
私には、これ以上に明晰な説明をすることはできない。

 

I do not want you to agree with me,
I do not want you to follow me,

I want you to understand what I am saying.

私は、諸君に、同意を求めていない。
私に従ってほしくもない。
私が諸君に望んでいるのは、私の言っていることを理解することだ。

 

This understanding is necessary
because your belief has not transformed you
but only complicated you,
and because you are not willing to face things as they are.

この理解が必要だ。
なぜなら、あなたの信念はあなたを変容しないからだ。
あなたの信念は、ただあなたを複雑にするだけだからだ。
そして、あなたが、あるがままの物事に直面する気がないからだ。

 

You want to have your own gods–new gods instead of the old,
new religions instead of the old,
new forms instead of the old–
all equally valueless, all barriers, all limitations, all crutches.

あなたは あなた自身の神(々)を持ちたいのだ-
古い神の代わりに新しい神を、

古い宗教の代わりに新しい宗教を、
古い形式の代わりに新しい形式を。
これらはすべて等しく無価値であり、障害であり、制限であり、松葉杖にすぎない

 

Instead of old spiritual distinctions you have new spiritual distinctions,
instead of old worships you have new worships.

古い霊的(スピリチュアル)的な差別の代わりに、
諸君は新しい霊的な差別を抱いている。

古い礼拝の代わりに、諸君は新しい礼拝を手にしている。
 

You are all depending for your spirituality on someone else,
for your happiness on someone else,
for your enlightenment on someone else;

諸君はすべて、諸君の霊性を誰か他の者に求めている。
諸君の幸福を誰か他の者に求めている。
諸君の啓発を誰か他の者に求めているのだ……

and although you have been preparing for me for eighteen years,
when I say all these things are unnecessary,
when I say that
you must put them all away and look within yourselves
for the enlightenment,
for the glory,
for the purification,
and for the incorruptibility of the self,
not one of you is willing to do it.

諸君は私のために18年間も準備をしてきたにもかかわらず、
私が諸君に、
これらの物事すべてが不要だと話しても、

諸君自らの内部に、
啓発を、
栄光を、
浄化を、
自己の不滅性を求められよと話しても、

諸君のうち誰ひとりとして進んで耳を貸そうとはしないのだ。

 

There may be a few, but very, very few.
So why have an organization?

わずかならいるかもしれない。
しかしそれもごくごく少数にしかすぎない。
それなのになぜ組織などを持つ必要があろう……

 

 

Why have false, hypocritical people following me, the embodiment of Truth?

私を信奉している偽善的な人々が、真理を体現できず失敗しているのは、
何故なのだろうか?

 

Please remember that I am not saying something harsh or unkind,
but we have reached a situation when you must face things as they are.

私は、残酷で不親切なことを言っているのではないと、覚えておいてほしい。
しかし、諸君があるがままの現状に直面しなければならない状況に達したのだ。

I said last year that I would not compromise.
昨年、私は、妥協しないと言った。

Very few listened to me then.
その時私に耳を傾けた人はほとんどいなかった。

This year I have made it absolutely clear.
今年、私は、それを完全に明らかにした。

I do not know how many thousands throughout the world–members of the Order–
have been preparing for me for eighteen years,
and yet now they are not willing to listen unconditionally, wholly, to what I say.

私のために18年間準備を整えてきた「星の教団」のメンバーが、
世界中に何千人いるのかを私は知らない。

しかし彼らは、未だに、
私が言っている内容を、完全に、無条件に、聞こうとはしない。

 

As I said before,
my purpose is to make men unconditionally free,
for I maintain that
the only spirituality is the incorruptibility of the self which is eternal,
is the harmony between reason and love.

先ほど述べたように、
私の目的は、人間を無条件に自由にすることである。

なぜなら、
唯一の霊性スピリチュアリティ)は、
永遠であり不朽の自己であり、
理性と愛の調和であると、
私は断言するからである。
 

This is the absolute, unconditioned Truth which is Life itself.
これは、絶対的な、無条件の、制約のない、生命そのものである真理だ。

I want therefore to set man free, rejoicing as the bird in the clear sky,
unburdened, independent, ecstatic in that freedom
.

それゆえ、私は、人を、
晴れた空を飛ぶ鳥のように、重荷を下し、独立し、その自由の中で歓喜を抱く、
喜びに満ちた自由へと、至らしめることを望む。

 

And I, for whom you have been preparing for eighteen years, now say that
you must be free of all these things,
free from your complications, your entanglements.

そして私は、諸君らが18年間準備してきた相手である私は、今、こう伝える
諸君は、
これらすべてのものから、あなたの混乱と紛糾から、あなたを縛る鉄条網から、
自由でなければならない。

 

For this you need not have an organization based on spiritual belief.
そのために、諸君が霊的(スピリチュアル的)な信念に基づいた組織を
持つ必要はない。

 

Why have an organization for five or ten people in the world
who understand, who are struggling, who have put aside all trivial things?
理解している人、奮闘している人、すべての些末なことを横においている人が
世界中で5人か10人である組織が、存在する理由が、どこにあるだろうか?

And for the weak people,
there can be no organization to help them to find the Truth,
because Truth is in everyone;
it is not far, it is not near;
it is eternally there.

そして、
弱い人々のための組織、

彼らが真理を見つけることを助けるための組織など、存在し得ない。
なぜなら、真理は、あらゆる人の中にあるからだ。
それは遠くにはない、近くにもない;
それは永遠にそこにある。

 

Organizations cannot make you free.
組織は、諸君を自由にすることはできない。

No man from outside can make you free;
nor can organized worship,
nor the immolation of yourselves for a cause, make you free;
nor can forming yourselves into an organization,
nor throwing yourselves into works, make you free.

いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることはできない。
組織化された崇拝も、大義への献身も 諸君を自由にはしない。
組織を作りあげてみても、仕事に没頭してみても 諸君は自由にはなれないのだ。

 

You use a typewriter to write letters, but you do not put it on an altar and worship it.
But that is what you are doing when organizations become your chief concern.

諸君は文字を打つためにタイプライターを使用する。
しかし諸君はそれを祭壇に祭りあげ、崇拝したりはしないであろう。
しかし組織が諸君の主要関心事となるや、諸君はこれと全く同じことを行うのだ。

 

How many members are there in it?”
That is the first question I am asked by all newspaper reporters.
“How many followers have you?
By their number we shall judge whether what you say is true or false.”
I do not know how many there are.
I am not concerned with that.

「メンバーの数はどのくらいですか」、
これがすべての新聞記者が私に聞く最初の質問である。
「信者は何人ですか。
 その数によって、あなたの説くところが真実か虚偽か判断しましょう」。
何人いるかなど私は知りはしないし、私にとってそんなことはどうでもよいのだ。

 

As I said, if there were even one man who had been set free, that were enough.
自由になった人間がひとりでもいさえすれば、それだけでもう十分である

 

 

Again, you have the idea that
only certain people hold the key to the Kingdom of Happiness.

繰り返して言う。
諸君はこう考えておられる。
ある特定の人々のみが<幸福の王国>への鍵を持っていると。

 

No one holds it.
No one has the authority to hold that key.

誰もそんなものは持っていない。
誰ひとりとしてそんな鍵を持つ資格などありはしないのだ。

 

That key is your own self,
and in the development and the purification
and in the incorruptibility of that
self alone is the Kingdom of Eternity.

鍵は諸君自身の自己なのだ。
その自己の開発と浄化の中に、
その自己の不滅性の中に、
その中にのみ<永遠の王国>は存在するのである……

 


So you will see how absurd is the whole structure that you have built,
looking for external help,
depending on others for your comfort, for your happiness, for your strength.

それゆえ、諸君らが構築してきた構造全体が、
外側の助けを探すことが、
あなたの快適さ、あなたの幸福、あなたの強さを他人に依存することが、
どれほど馬鹿げているかがわかるであろう。

 

These can only be found within yourselves.

これらのものは、自分自身の中にしか見いだすことはできない。

 

You are accustomed to being told
how far you have advanced, what is your spiritual status.

あなたはこのくらい進歩した、霊的位階はこんなところです、
こう言われることに諸君は慣れ親しんでこられた。

How childish!
なんとこどもっぽいことであろう!

 

Who but yourself can tell you if you are beautiful or ugly within?
諸君の内面が美しいか醜いかを、諸君以外の誰が 諸君自身に語ることができる?

Who but yourself can tell you if you are incorruptible?
諸君が不滅であるかどうか、諸君以外の誰が 諸君に語れよう……

 

You are not serious in these things.
諸君はこれらのことに真剣ではないのだ。

 

 

But those who really desire to understand,
who are looking to find that which is eternal,
without beginning and without an end,

will walk together with a greater intensity,
will be a danger to everything that is unessential, to unrealities, to shadows.

理解しようと本当に欲する人々、
始めもなく終わりもない
永遠なる<かのもの>を見出そうとしている人々は、

さらに大いなる熱情をもって歩むだろう。
そしてかれらは、
非本質的なすべてのものにとって、
真実でないものにとって、
影法師にすぎないものにとって、
危険なものとなるであろう。

 

And they will concentrate, they will become the flame, because they understand.

かれらは全精力を集中し、炎となるであろう。
なぜなら彼らは理解するからである。

 

Such a body we must create, and that is my purpose.

このような人々の連帯こそわれわれは創り出さなければならない。
これが私の目的である。


Because of that real understanding there will be true friendship.
この真の理解によってのみ、真の友愛は生まれるであろう。

Because of that true friendship–which you do not seem to know–
there will be real cooperation on the part of each one.

そうした真の友愛――これについて諸君はご存知ないように思われるが――
この友愛によって、各人の立場に立った真の協力が成り立つことであろう。

 

And this not because of authority,
not because of salvation,
not because of immolation for a cause,
but because you really understand,
and hence are capable of living in the eternal.

これは
権威によるものでも、
救済によるものでもなく、
ある結果をもたらすための生贄によるものでもなく、
諸君が本当に理解することによるのであり、
かくて諸君は、永遠の中に生きることが可能となるのである。

 

This is a greater thing than all pleasure, than all sacrifice.
これはどのような快楽よりも、いかなる犠牲よりも偉大なものである。

 

 

So these are some of the reasons why, after careful consideration for two years,
I have made this decision.

以上が、二年間にわたる熟慮検討ののちに、
私がこの決定を下すに至った幾つかの理由である。

 

It is not from a momentary impulse. I have not been persuaded to it by anyone.
I am not persuaded in such things.
For two years I have been thinking about this, slowly, carefully, patiently,
and I have now decided to disband the Order, as I happen to be its Head.

この決定が一時の衝動にようなものではないし、誰かに説得されたわけでもない――
こういったことで私は説得などされはしない。
二年間、私はこのことを考え続けてきた。
ゆっくりと、注意深く、忍耐強く。
そして今、私は<教団>を解散することに決めたのである。
私がたまたまその長となっているがゆえに。

 

You can form other organizations and expect someone else.
諸君は他の組織を作ることもできるし、誰か他のものを期待することもできよう。

With that I am not concerned,
nor with creating new cages, new decorations for those cages.

しかし私はそのことに興味はないし、
新しい獄舎を作ることにも、その獄舎の新しい様々な装飾品を作ることにも
興味はない。

 

My only concern is to set men absolutely, unconditionally free.

私の関心はただひとつ、
それは人々を、完全に、かつ無条件に自由たらしめることなのである。

 

※英語引用元:Krishnamurti Foundation of America - https://jkrishnamurti.org/about-dissolution-speech 
※日本語引用元:クリシュナムルティの瞑想録
 

 

 



…...去っていく第6光線の象徴みたいなマスターですね...…(衝撃)


……えー、
私が持っている本では省かれていた英語オンリー部分の
最適日本語を考えて(この紫字で)書いていくにつれて、
心底、クリシュナムルティに同情する羽目になっていったとでございますよ...。
(あまりの切なさ乱れ打ち度にちょっと日本語おかしくなったでございますよ...)

これ、わたしは、ヴィヴェーカーナンダとか先生とかから
ちゃんと同じことを習ったでござるよ...(なんだこの日本語、笑)


えー、
そういうわけで、
このスピーチ、

最大重要ポイントは
「真理はそこへ至る道のない土地である」では全くないのです。


『信者(生徒)に向かって

 自分の内側に、
 Enlightenment(啓発)を、
 the glory(栄光)を、

 the purification(浄化)を、
 the incorruptibility of the self(自己の不滅性)を
求めなさい、

 って何回教えても、


 ほんっとに誰も全然聞きやがらんわ、
 しかも、誰か(っていうか俺)に何とかしてもらお~と思っとるわ、
 だからそれは 不 可 能 なんやって言うとるやろ!

 組織や教師(俺)を見るという理由でこいつらが自分の内側を見ないなら、
 それならいっそそんなもんない方がマシや!
 せめて数人、本物が生まれてくれたらそれで十分や!!!』



というのが、彼の真意です。

あかん、泣けてきた。
こんな苦労してた人やったんやな、クリシュナムルティて...
そら解散もするわな......



 ............

 ............ええとですね、


 「これは、第3→第4段階のためのものです。
  そしてしれっと第5段階の話が混ざっています。
  第4→第5段階のためのコツは、もう既にあります。
  やってみませんか」

 だそうです️......。 ⓒMaster DK他...(他...笑)




 

 

さて、最後に、クリシュナムルティの瞑想と睡眠について、ご紹介します。

真我永久化についての自己判別基準の1つが、この、睡眠の変化です。

 

 

 

睡眠と瞑想

 

Sleep is as important as keeping awake, perhaps more so.
眠りは目覚めている状態と同じように、おそらくはそれ以上に大切である。

 

If during the day-time the mind is watchful, self-recollected,
observing the inward and outward movement of life,
then at night meditation comes as a benediction.

日中、精神が注意力を働かせて、冷静に内部的、外部的な生の動きを観察していれば、
夜になってから瞑想が祝福となって訪れるであろう。

 

The mind wakes up,
and out of the depth of silence
there is the enchantment of meditation,
which no imagination or flight of fancy can ever bring about.

精神は目覚め、
深い沈黙の中から、
どのような想像や空想の飛翔によっても決してもたらすことのできない
瞑想の喜悦が生まれてくる。

 

It happens without the mind ever inviting it:
it comes into being out of the tranquillity of consciousness -
not within it but outside of it,
not in the periphery of thought but beyond the reaches of thought.

それは、絶えずそのような体験を呼び招こうとしている精神の活動が
ないときに現れるのである。
そのような喜ばしきものは
意識が静まり返っているときに、しかも意識の中ではなく外側に、
思考の周辺ではなくその手の届かないところに姿を現すのである。

 

So there is no memory of it,
for remembrance is always of the past,
and meditation is not the resurrection of the past.

それゆえ、そのような境地については、何の記憶も残らない。
なぜなら記憶は常に過去しかとらえられないからであり、
瞑想はなんら過去をよみがえらせるものではないからである。 

 

It happens out of the fullness of the heart
and not out of intellectual brightness and capacity.

それは心情の無量性から生まれるものであって、
理知的な明敏さや能力から生まれるものではない。

 

It may happen night after night,
but each time, if you are so blessed, it is new -
not new in being different from old,
but new without the background of the old,
new in its diversity and changeless change.

あなたがもし幸運であれば、
それは毎晩のように訪れ、それはその都度常に新しい――
それは古いものと対比しての新しさではなく、
古いものを背後に持たない変幻自在な新しさであり、
変化しながらしかも何一つ変わることがない。

 

So sleep becomes a thing of extraordinary importance,
not the sleep of exhaustion,
not the sleep brought about through drugs and physical satisfaction,
but a sleep that is as light and quick as the body is sensitive.

それゆえ疲労、あるいは薬、肉体的満足の結果生まれるような睡眠ではなく、
身体が鋭敏になっているときと同じように軽快で敏速な眠りである。

 

And the body is made sensitive through alertness.
そして、身体は覚醒を通して鋭敏になる。

 

Sometimes meditation is as light as a breeze that passes by;
at other times its depth is beyond all measure.

瞑想はあるときは吹きすぎる微風のように軽やかであり、
またあるときは底知れない深さを湛えたものとなる。

 

But if the mind holds one or the other as a remembrance to be indulged in,
then the ecstasy of meditation comes to an end.

しかしいずれにせよ
精神が、耽溺の対象として思い出にとどめようと意図すれば、
瞑想の祝福には終止符が打たれる。

 

It is important never to possess or desire possession of it.
肝要なことは、決してそれを所有しようとしたり、所有を望んだりしないことである。

 

The quality of possessiveness must never enter into meditation,
for meditation has no root, nor any substance which the mind can hold.

瞑想は精神によって捕捉できるいかなる根もそれに類するものを供えておらず、
それゆえ所有への志向があっては決して瞑想の中に参入できないのである。

 

 

 

引用元: The Only Revolution - Jiddu Krishnamurti

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

 

 






「心情の無量性」ってなんなんだろうとおもっていたら、

英語は"the fullness of the heart"だったというこの衝撃。


しかしまー、
たったこれだけの文章量(行数)の中に、その内容量を全部詰め込んだのが凄いわ、

っていう感じですね...。

わたしにしてみれば、これ、1文を1つのテーマにして
レポート書けそうなんですけど...

何故これをさらっとまとめてしまうのだ天才肌の方々は!(笑)



 


 

「熟睡時も瞑想が継続する」といったら、

ブッタさん(釈迦)も確か、
仏陀の弟子は昼も夜もよく目覚めている、とか言ってなかったかな……

※参考:釈迦 - Wikipedia 

 

あ、ありましたありました。

 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、
その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。

『ブッダの真理のことば・感興のことば 』

 

 

このあたりの
「いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も」シリーズ(笑)を
読んだときに、
「昼も夜も一日中=睡眠時もずっとアートマンの状態」の話かなと思ったんですよ。

 

もともとブッダさん(ガウタマ・シッタールダ)てインド文化圏の方だし、
瞑想のプロ中のプロだったから(笑)、
トゥリーヤの説明というか定義というかを知ってらしても不思議じゃないですし!

 


 

そして、気付けば今回は4万5000字オーバーをやらかした件。OTL

 

おかしい、わたし、次は短くするって宣言したのに...
でももう今回で流石に原因はわかりました、
話題が飛ぶのと、うっかり雑談をしてしまうのが諸悪の根元な...OTL。

次回こそ話逸れないようにして文量減らします...OTL